どちら様を眺め回しても
独立的な複数の生き方をしながら、たった一つ変化しなかったものがある。配偶者である。一人の女を守り通したから、私にはあり得ない事のように思え、余程良い女だったのだろう。と、これは当の本人が事ある毎に私へそう言っている。
私の人生で辛うじて前後に脈絡があって因果応報のルールが当て嵌まるケースは、セールスマン時代の経験と今の会社の設立位であろうか。一介のサラリーマンと人を使う社長という正反対な立場の違いがあるとはいえ、物を販売するという点で共通しているからだ。
こういった人生を生きてみると、一体どの部分が「本当の自分」だったのか判らないし、実際に答えるのが難しい。「今のところは」発明家ですわ、エッセイストを兼ねてますねんとなる。人の「5倍」だから多種類ではあるが、それでも、「刑事にならないか」と途中で誘われたり、一流とまでならなくても、それぞれの分野である程度の域には達したと自分では考えている。
決して私に特別な才能が有ったからではない。平均的な能力があれば人は大抵どんな仕事であっても、熱心にやれば適応できるのを「立証している」。大なり小なり人はみな同じようなもので、多少の頭の善し悪しはあるにしても、大した違いは無い。他人がやれることは大概自分にもやれるもので、上達もする。上達すれば面白くなるから更に上達する。中には、人のやるのを見て「(同じことを)オレならもっと上手くやれるかもーーー」と思う仕事もあるものだ。
(私は今は会社を経営しているが)ウチへ入社して来た嫌われ者だったキツネ目の女性社員が、男の世界で一躍トップセールスとなった事例(既に先に紹介した)もある。いや、その前に人嫌いな性格の自分が業界で、やはりトップセールスになれたのも、そんな実例と言えるだろう。だから文化勲章の人や日経の「私の履歴書」のコラムも含めて、どちら様を眺め回しても特に偉いとは私は感じず、また巷のルンペンの姿を眺めても、生き方が下手だと思う事はあっても見下す事はない。




