無念の思い
人が考えるより人生は長いから、後日談がある。
紆余曲折があった。自分の苦手とした「人間関係」に頼らず、潔癖症と柔軟性を生かして「社長になる」という目標を後年私は実現して、世の常識を打ち破った。
それはひとまず横に置いて、先のT社には私と親しかった同僚のI君が居た。先に紹介した上役に仲人をしてもらった男である。T社を辞めた後も、年賀状を交換し時々会う事もあった。彼は大学院を出ていたから私より一つか二つ上で、T社時代に一緒に英会話を勉強した間柄である。私の配偶者とも顔なじみで、辞めた後も彼を通じてT社内の様子は、それとなく私の耳に伝わって来ていた。
年月が経ち、その後私の直接の上司であったW主任が会社を辞めた事、A課長が課長のまま定年退職したことや、H部長が昇進してついに専務にまで上り詰め、あと一歩で社長の座に迫ろうとしていた状況も逐一知っていた。
一方で私には割と義理堅い処がある。肌の合わなかった上役であったとしても、当時若かった私に英語力を仕込んで呉れたのは紛れも無い事実。そんな恩義があるから、T社を辞めた後でも欠かさず義理年賀状を出していた。時には「元気にしています」位は書き添えた。
そんな内に、H部長がついに社長にはなれずに、専務のままで退職したのを風の便りとI君からの話で知っていた。
更に年月が過ぎて、私は自社の社長業に専念していた。六十を幾つか過ぎた頃だったか、相変わらず義理年賀状を出し続けていたが、ある年、(ゴルフが好きだった)H元部長(=元専務でもあるが)からの返信年賀状に、珍しく一筆が書き添えてあった:「最終パットでミスった」
他に説明が無くても、それがどういう意味か私には分かった。専務のままで社長になれなかった恨みが滲み出ていた。役員としての65の定年で既に会社を去って10年以上も経っていた筈だが、無念の思いをしっかり胸に抱いて生きていたのだ。




