◎第六十八話:「定年後」の話
◎第六十八話:「定年後」の話
以前に一度似た事を書いたが、人が忘れたころを見計らって再度書くのも悪くは無いと思う。
大体人の考える事は皆同じようなもので、新しいアイデアや巧妙な女の口説き方を思い付いても、人の歴史何千年かをさかのぼれば、同じ話は過去に繰り返しあるに違いない。ただ読者が新陳交代して都度新しくなるから、読む人に新しく見えるだけかもしれない。
AI(人工知能)が将来は小説や文学を作れるようになると予測されているそうだが、これはコンピューターが過何千年分のデータや文学を分析して学習する事を踏まえての事だと思う。だから恐れず私も、そんなアルゴリズム(=論理的思考に基づいて得られる計算結果)に従おう。
という訳で、またもや「定年後の話」である:
誰しも定年後には(制約の無い時間があるから)あれをしたい・これもしたいと考えるようだ。けれども、そんな人にきつく注意を喚起したいのは、現役時代に考え付いた「あれをしたい」というアイデアは、余り当てにならないという事。
いざ現実に定年退職してみると、考えが大いに「違って」しまう事がある。こういう思い違いは市販の「老後の為の指南書」に余り書いていないから、注意した方がよい。例えるなら、空腹時には天下の美味に見えた「お好み焼き」も、食後の満腹の時にはそう見えるとは限らないのと同じだ。
先輩の実例を見てびっくりした事がある:
一人は私の父親で、もう一人は敬意を払っていた私の仕事上の先輩で筒井さんといった。老後を無事通過して、二人とも今は鬼籍に入っている。両人とも若い頃から油絵を描くことが好きだったようで、私が時々見せて貰っていた絵は、素人放れして上手に見えた。
そんな特技が、老後の良い趣味になるだろうと私は羨ましく思ったし、本人も「絵画三昧」の生活を定年直前に繰り返し私に話していたものである。これには他にも証言者が居る。
実際に私はこの目で見ているが、さて定年後の二人に何が起きたかーーー?:全く見事に、両人とも揃って絵を描かなくなったのである。定年後に描いたのは精々1~2枚が関の山で、それでお仕舞。
使われなくなった立派な油絵の道具箱を眺めて私がそれを指摘すると、「描けなくなったんだ」というのが共通の返事。道具がゴミ箱行きとなったから、私は開いた口が塞がらなかった。「絵など描いて何になるーーー」と本人たちは思ったのだろうか。




