お姉さん
4.お姉さん
やっちゃんは私へ特に優しかった訳でもなかったし、遊んでもらった記憶もない。年頃のやっちゃんの関心事が、預けられた神戸のちびっ子達にあろう筈はない。それでも私にはこんな記憶がある:
大雨が降って、やっちゃんが小学校まで傘を届けに来てくれた。授業が終わるのを直ぐ外の廊下に立ってじっと待っている姿が、教室の中から透明なガラス戸を通して見えた。同級生が「綺麗なお姉さんだ」と後で羨ましがったのを覚えている。その日一緒に家に帰ったか、別々だったかは覚えていない。何かしてもらったのは、これだけの記憶しかない。
そんな事がありながら、夕方だったと思うがある時、家の中でやっちゃんに別室に呼ばれた。玄関脇の狭い部屋で、二人だけで何となく薄暗かった。立ったまま差し向かいで私は注意を受けた:「これから私を呼ぶ時は、やっちゃんと言ってはいけません。「泰子お姉さん」といいなさい。分かった!?」と。
そりゃあ、そうだろう。人間になり立てのチビガキに、十九のお金持ちの令嬢が簡単にやっちゃんと呼ばれた日にゃ、頭に来ただろう。暫くの間だったとしても、よく我慢してくれたものだ。
けれどもこっちはこっちで、外の人は構わないのに、どうして自分一人が差別され、長たらしい呼び方をしないといけないのかーーー、当時はよく分からなかった。分からないのはボンヤリしていた証拠だが、内心でイヤイヤながら以後「泰子お姉さん」と呼んだ。
そう呼ぶようになると、やっちゃんが何となくよそよそしく偉くなったような気がしたから、自分で妙に感じたのを今も覚えている。元々末っ子であるやっちゃんの方でも、自分が「お姉さん」と呼ばれるのは初めての経験で慣れてなかったから、私にそう呼ばれると矢張り妙な表情をしていた。
人から「社長!」と呼ばれるのと「xxxさん・ヒーちゃん・ヒロシ」と呼ばれるのとでは、同じ自分の事ながら気分が随分違うのは確かだ。人とはそういうものらしい。
私に限らないと思うが、幼少期の男の子というのは年上の若い女性に、それもかなり年が離れているのに、ほのかな思慕の念を寄せるものと思う。同年齢の女の子を対象に好きというのとは少し違うけれども。私の場合、それが「やっちゃん」だった。
 




