血管が切れる手はず
暑い盛りに八十代の年寄りが野良作業中に、熱中症で死亡したというニュースを聞いた。何もあの歳まで仕事をやらなくてもーーー実に痛ましい事件だなんて、バカが言う。本当は実に「痛ましくない」平和な事件である。とても良かったなーーーと私なら思う。それが仕事中なら、正しく「幸福のさ中」じゃないか!
私の場合なら、日曜日に出勤した会社の研究室内で開発中の新製品テンションナットM36の締付けに、ウッとひと気張りした途端に、血管が切れる手筈になっている。「特許がーーー!」と叫びながら、どさりと床にくずおれて息を引き取る事になり、死体は月曜日の朝一番に発見されるだろう。あの手この手で墓に入るまで、人の手を煩わせるよりは良かろうよ。
世間では判った風にこう言う人が居る: 「働く事が生きがいだと言えば聞こえはいいですが、人間らしく生きることまで犠牲にして働くのはおかしいですよねえ」
如何にももっともらしく響くが、ゆめ騙されてはなりませんぞ! この言葉の裏にはズルイ処があるから、質問してみよう。
「人間らしく」生きるとはどういう事かを、具体的に示してないからだ。だからズルイ。それって「山登りしたい」事なのかい? それとも「オペラの観劇」に行きたいのかい? それともゴルフ? 家系図を作りたいの?
「人間らしく生きるーーーが、「そんな程度の事」ならば、一番の幸せを先ず働く事に置いて、その合間合間にちょいちょい、「そんな程度の事」を挟み込めばいいのですよ」が、正解。




