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女を忘れない

3.女を忘れない


 買い物に出た妹は、なかなか戻って来ない。病室とはいえ母と二人きりで一緒の時間を過ごすのは、もう何年振りなのか。けれども、ベッドから力無く私を見上げる母の目は、そこに居ないのに、私の後ろに付き添っている嫁の影を捉えているのだろうか。母は黙っていた。宝物の筈の息子が間近に居りながらも、母の心を占めるのは寂寥と孤独かも知れない。


 閉め切った窓の外で低学年の小学生達らしい甲高い声が聞えた。家のすぐ前の道を三々五々ふざけ合って歩いているらしい。彼らには、これから長く生きる自分達の命と遊ぶ事だけが天下の大事である。三番目の人の死など思いも寄らない。窓ガラス一枚隔てて一つの命が消えようとしていても、世の中は何処かのどかである。母の耳に子供達の「のどかさ」が聞こえたろうか?


 耳の遠い母へ良く聞こえるように、大きな声で人生の総決算を試しに訊いてみた:「人生は幸せだったかい?」 

 暫く間を置いて「まあ、幸せなほう」と小さくゆっくり応えた。聞き取り難いが、案外しっかりした返事にたじろいだ。こんな時は意識の鮮明さが反って残酷に感じる。


 そう聞いて、「戦争もあったし、大変だったよな」と私は女の一生を振り返る思いで怒鳴るように言った。当時はウチだけでなく、日本中が貧しかった。遠くを見るように、母は暫く目を空中に泳がせてから、「赤紙※の来るのが怖かった、子供が居たし」と、細い声が一語一語応えた。昔の女の結婚は親の言うまま男に嫁ぐのが当たり前で、恋愛の問題ではなく経済の問題であった。 ※召集令状


 七年前に死んだ夫とは長く不仲であったから、母の幸せの度合が高かったとは思えない。夫は田舎の落ちぶれた文具屋の長男で苦労人であったが、苦学して防衛省の課長となり、定年退職した。学歴の無さから言えば、国家公務員として破格な出世であったと思う。頑張り屋だった。

 一方で、母は岡山市内で岡山銀座と呼ばれた商店街で赤菱の名で知られた呉服屋の娘であったから、何不自由のない生活で育った。


「(お父さんは)節句に立てる鯉のぼりが紙で出来ていると言い張るのよ、可笑しいよねえーーー」と言って、母親は子供達の前で家庭が貧しかった父親をそれとなく小バカにしていた。

 好き嫌いの前に、二人の結婚が釣り合っていたとは言えない。父親も冷たい処があったが、不仲の原因はむしろお嬢さん育ちの母の我がままにあったと私は思う。

「箱入り娘の母さんと田舎の父さんは、育ちが違い過ぎたね」と慰める積りで言うと、目を少し笑わせた。母の私への偏愛振りは、結果的に夫に対する不満の裏返しだったろうかという気がする。


 夫婦は私を含めて三男一女をなした。が、次男は大学一年の時に自殺、妹は高校三年に家出、三男は自閉症。まともに育ったのは長男の私一人であった。何故そんな風になったか良く分らない。ひょっとすると、それらは母の私一人へ偏り過ぎた愛情のせいだったかと思わぬ事もない。私にも大きな責任があったように思う。けれども、何もかもがもう手遅れで間に合わない。


 悲惨に壊れてしまった家族だったのに、人生の最終決算で「幸せな方」と呟くのは、どの部分を取って母がそう振り返るのか判らない。「とても幸せ」という返事ではないから「どちらかと言えば幸せな方に属する・世には不幸せな女がもっといる・これ以上の幸せはもう諦めた」の意味なのだろうか。


 私がこうして母を見舞う事が出来る事・息子の私が出世した事・自分の娘に今面倒を見て貰っている事も、幸せの中に含まれているのかもしれない。

 息子としてしてやれる事には限度があったし、仕方のない事もあった。ただ、母の寂しさと哀れは良く分かる気がして、私はそれらを我が身一つに引き受ける気がした。


 枕元に台紙が茶色に変色した家族の古いアルバムが一冊置いてあった。妹が私の為に気を利かせたか、それとも母が見たがったからか。アルバムを繰って眺めながら、若い時代の母は確かに美人だと思った。周りから一目置かれていたから写真を指差しながら、「母さんは美人だね。結婚した時父さんは嬉しかったろうな」と、言葉を区切りながらゆっくり言うと、さっきよりも多めに目を笑わせた。湿り気を失い死に掛かっていても、女である事を忘れてはいない。


 様子に勇気を得て、「神戸の父さんのお墓に、一緒に入るかい?」と思い切って訊くと、小さく頷いた。あんなに不仲であったのにと思いながら、矢張り一人切りの墓に入るのは寂しいのか、それともあれこれ考えるのがもう億劫なのかーーー。

 けれども直ぐ後で、母は私のそばに居たいからだと気が付いた。父の墓は神戸の私の住まいの直ぐ近所にある。

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