私の父親
4.私の父親
87で死んだ私の父親の「定年後」は、こうだった:(防衛省の)国家公務員を課長で終えた。まとまった金額の退職金は別勘定にして、年金(公務員の共済制度も含めて)だけで当時月40万円程度あったようだ。持ち家はあったから老夫婦二人には充分な水準である。悠々自適をやろうと思えば出来た。事実妻(私の母親)と二人で、土日を利用して時々国内小旅行を繰り返していた。
けれども、並行して、当時まだ便利に使えた公務員の天下りシステムを悪用(?)して父親は「死ぬ1ケ月前まで」働き続けたのである。独立行政法人みたいな処で防衛業務に無関係な仕事で、大阪空港周辺の騒音公害に対する住民への「健康相談」みたいな仕事のようだった。
最後の半年間は、無論毎日だが、ただ事務員がいれてくれるインスタントのコーヒーを飲む為だけに「しんどいーー」と言いながら、出勤していたように見えた。神戸の須磨から職場のある豊中市までだから、自宅から須磨駅までの往復のきついキツネ坂を歩き電車を乗り継いで、通勤に一時間以上がかかったのは間違いない。
恐らくその事業所では(交通費は全額出してくれたようだが)「無給」に近かったのではなかったか。給料面で言えばペイしない。
当時は分からなかったが、今になって考えると「働き続けた」父親の生き方は正解だった、ように思う。世に似た例は多いと思うが、結果として先の哲学者の言葉通り、社会と接触を保ちつつ「任務を果たし」ながら、生涯を生きた事になる。老人特有の寂しさや孤独とは無縁であった。
父親の趣味は油絵を描く事であった。確かに上手で、退職後に絵道具一式を買い揃えていた。絵の仲間も居たようだ。定年前から、それを老後の楽しみとする見込みだったのは充分分かる。恐らく何枚かの絵は描いたらしい。
けれども父親は、ある日その(悠々自適な)趣味を放擲し、結果的に一時間以上の通勤を物ともせず「社会との接点を求め・仕事をし・健康相談に乗る」道を再選択したのである。
好きな筈だった絵は(びっくりするくらい)一枚も描かなくなり、代わりに仕事を選んだ。私にはそれが何となく分かる気がする。こう思ったのだろう:
「絵など描いて何になるーーー」




