一人立ち
2.一人立ち
私が小学三~四年の頃、母は結核を煩った。
が、運が良かった事に、時を同じくして米国で開発された特効薬ストレプトマイシンが国内にも行き渡り始め、それが間に合った。間に合わなければ死ぬこともあり得た筈だったから、病が回復した後でも肺に石灰化した空洞が残影として残った。ひびの入った茶碗を扱うように、以後の生涯を体をいといながら、母は用心深く生きて来た。
母の退院後家事を助ける為に、兄弟四人の中で一番年長だった私は、家の手伝いを良くしたようだ。ようだ、と曖昧な言い方をしたのは、格別取り立てて言う程の事をやった意識が私に無いからだ。けれども、隣近所で評判であった。大人というのは案外詰らない事に感心するもんだと子供心に思っていたが、世間から見れば確かに孝行息子だったのかもしれない。
私の日課の一つは、廊下や階段の雑巾掛けと家族の衣類の洗濯。当時電気洗濯機はなく、風呂場で洗濯板を使って粉石けんをまぶしてゴシゴシやった。今でも質の悪い石鹸の匂いを嗅ぐと、当時をありありと思い出す。弟や妹たちの分も含めて洗い籠に沢山あった。母親のものと思われるパンツを籠から引っ張り出して、えらく大きいなと感じたのを覚えている。昔は全部デカパンであった。
何時の頃からか電気洗濯機が買われて、私の仕事は減った。中学・高校・大学へと進学し、兄弟の中で私が学業で一番良く出来た為と、加えて先の洗濯板の美談の加勢もあって、母の中で私は「特別な存在」になっていた。だから私が二十八で結婚した時は、大事な宝物、いや恋人を奪われるに似た気持ちが母にあったかも知れない。結婚当初同居していたが、私は二人の女の確執に挟まれた。どちらかというと配偶者よりも母の方がより強く私に執着して、一度だけだったが、泣いて私に訴えた事がある。
訴えられても母親に勝ち目は無い。私が母親よりも配偶者の方を選択したからで、問題解決の為に別居を決意した。母の目には冷たく映ったろうが仕方の無い事で、私には慕うべき対象と愛すべき対象の女は違う。息子の「一人立ち」とは、そういう事を意味し私が迷うことは無かった。以後ずっと離れて暮らした。
「あの子は、あんな風ではなかった」と、母が叔母へ密かに愚痴っていたのを私は知っている。洗濯板の孝行息子の姿は、母の中で何十年経っても色あせなかったから、「あんな風になった」のは嫁のせいと信じて、息子を奪った女を憎んだ。




