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耳から蒸気

 どう控えめに見ても女の方が一枚上だ。だのに大概の男が、女のおしゃべりをややもすれば揶揄するが、間違っているのはむしろ男の側ではあるまいか。私は、西行にも山頭火にもなりたくはないからだ。考え直すことにした。


8.夫の大きな決断

 私も男の内だから世の一般の男の例に漏れず、配偶者の話を聴くとしてもずっと「ながら族」専門であった。が、ある時切っ掛けがあったのだ。長年続けて来た夫婦関係が油が切れたみたいにキイキイときしみ出して来たからである。ベッドシーンの回数が顕著に減ったせいかもしれなかった。このままではいけないと考えた時に、神は細部に宿るのを思い出した:先の喫茶店で眺めた女族の楽し気な様子や他の反面教師となる観察データも総合して、「多分、男が悪いのだろう」と分析し結論とした。


 人生は乗り越えるべき課題や試練があってこそ充実する。夫婦の関係改善の対策として、配偶者のおしゃべりに「とことん」付き合って見ようと決心した。「ながら族」からの脱皮で、かってやった事のない試みだから、心境の大きな変化だ。付き合うと言っても、こっちは元々喋るのが上手ではないから、徹底して聞く側に回わることにした。大きな決断であった。


 私達二人は同じ職場で仕事をしているが、これが為に昼休みに一緒にランチに出掛ける機会が多い。それまで、私は片手に必ずその日の新聞を持って出掛けた。「食べながら」読む為であり、女のおしゃべりを「聴きながら」読む為だった。長く続いて来たこの習慣を「新聞を持たず、手ぶらで出掛けるように」変えた。女のおしゃべりを「聴く」のに専念する事にしたからだ。


 やり方は徹底して、自宅でも一緒に居る時は必ず実行。女がしゃべりかけると、読んでいた新聞をわきへ置いて、「何だい?」とにこやかに笑顔を向けて、先ず「怒っていない」のを立証して見せてから、「聴く」に専念する。家の内外で「ながら」を中止して、女の「おしゃべり」と正面から対峙した。


 洪水みたいに、時に垂れ流すように押し寄せる相手の「おしゃべり」を残らず真剣に聴くのは、そう易しいことではない。女脳と男脳には違いが在ると聞くが、男はそういう習慣に慣れていないからだ。当初はいらいらして耐えがたかった、確かにこれは。

 男の脳は元来セックス専用で防波堤用に作られていないから、おしゃべりの洪水に弱い。女の話の結論が一体どこへ向かうのか、何時も迷いながら聞いた。話が堂々巡りする部分も多々あるが、これは岸辺に繰り返し打ち寄せる心地よいさざ波だと無理に思う事にした。努力する内に次第に慣れたから、人間修養が大切だと思う。


 聞いていて、無論役に立つおしゃべりも多い:新聞のニュース記事を事前に読んで内容を話してくれたりするから、こっちは新聞を読まなくて済み時間の節約になる。女が特に気に入った記事や話題には、自分の意見も都合良く混ぜ合わせて判り易く噛み砕いて説明してくれるから、有難い事だ。ただ、噛み砕かれて唾だらけになったのを、つまりは、私に飲み込ませる訳だから多少の不潔感を感じるが、これくらいは我慢しないといけない。


 「おしゃべり」を聴くのに慣れて来たついでに、それまで 「新聞片手に」やっていたウンとかスンの生返事の代わりに、もっと積極的に相槌を打つことにした。ヘエッ!とか、ハアッ!とか言うのである。若々しく女子高生風に「ウッソオ!」も混ぜて、いかにも甲斐甲斐しく相槌を開始した。 時々変化を付けて、「そら、エライコッチャ!」の掛け声も工夫した。歌舞伎で言えば、「成田屋ッ!」みたいな気合いと思えばよろし。


 掛け声は掛けるが、絶対に反論したり批判をしない。これがコツで、女の「おしゃべり」の腰を折らない為だ。このルールを私は固く守った。 むしろ女へ賛美の目を向けて一言半句も聞き漏らすまい、という姿勢を強調して拝聴する。この時ぐっと背筋を伸ばせば、相手に「聞く」意気込みを示せるからベストだ。


 従来とは打って変わった熱意ある聴衆の態度にーーー、と言っても聴衆の数は一人なのだが、女は感動する。これに勇気づけられた女はペロリと舌で唇にひと湿りをくれるや、呂律ろれつの運転も滑らかに、蒸気機関車みたいに「おしゃべり」がばく進する。シュッシュッと鼻と耳から勢いよく蒸気が出る感じになる。壮観で、容赦なく降り注ぐおしゃべりに包まれて「やっぱり、女は偉大だ!」という心境に達すれば、男として、いや夫としてもはや通に近い。


 仮に、女の話が難解過ぎて理解出来なくとも、「分かるよ、分かる!分かる!」と三拍子の相槌を繰り返すのが、夫たる者の基本。間違っても、専門外のことに、利いた風な口を挟んではならない。


 表情を含めて小さな点も見逃さないように女の話へ耳を傾けるのは、本気でやってみると意外と愉しみなもの。耳が二つあるのは、決して老眼鏡を掛ける為ではないのが、実感としてしみじみ分かる。おしゃべりを聞くのは良い社会勉強にもなって学力が付くから、私は定年後に塾とか予備校に通う必要が全くない。


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