◎第五十三話: 「図書室」の話
◎第五十三話: 「図書室」の話
1.雨に歩けば
中三の時だった。英語の先生が急なお休みで、代りに別な先生が教室にやって来た。私が驚いたのは、それが何時も学校の図書室に居る用務員だったからである。中三といえば、大人一歩手前で生意気盛りだから、無条件にどんな大人でも尊敬しようとは考えてはいない。だから用務員というだけで、尊敬の対象から外れていた。
用務員は何時も図書室の片隅に座っていて、何をするでもなくただ暇つぶしみたいに本を読んでいた。それだけで、「ロクでもない大人」と普段から思っていた。これが代理教師として突然現れたから、こっちがあっけにとられた。他の生徒たちもそう思ったに違いない。けれども同時に、ほっとした気分もあった。普段の英語教師の時みたいに、いきなり小テストを実施されたり、あの手この手の質問責めで息の根を止められる目に、遭う事はあるまいから。
教壇に立った用務員の物言いは遠慮がちであった。最初の言い訳が、どう始まったかは忘れてしまった。が、多分こう言ったのだろう:
「(英語の)A先生が今日はお休みですが、普段から習っている先生のやり方のリズムを乱してはいけないから、今日の授業では敢えて普段の教科書は使いません。代わりに別の教材を使いましょう」
そんな前置きをしてから、黒板へ英語で詩を書き始めた。何かを見て書き写すでもなかった。無造作に詞をさらさらと黒板に走らせる様子に、びっくりした。小さく口ずさみながら書いたから、丁度その頃に流行っていた外国の歌の歌詞であると、直ぐにクラス全員に分かった:
「Just walking in the rain ―――(♪雨に歩けば♪)」(ジョニー・レイ)。
私もラジオで何度か耳にしていた。出だしは軽快な口笛から始まるリズムの良い曲で、実は今でも好きな曲の一つである。
教室には一言の私語も聞かれず、皆が黒板へ惹き付けられて行くのが雰囲気で分かった。ロクでもないと思い込んでいた大人が、実は英語の大家だと認識したのだ。全員が度肝を抜かれた。こうして、かってないほど異質で奇妙で、魅力的な英語の授業が開始したのである。




