素敵な人ね
11.素敵な人ね
「貴方もこの近所なの?」と、お婆さん。
「うん、この歳だけれど、未だ働いているよ。近所にある小さな会社の社長さ」
「へえ、偉いのねーーー」
「昼には何時もここでドーナツを食べる習慣なんだ。もう一時で時間だから会社へ戻るけれど、もし僕に会いたければ、何日でもこの時間にここへいらっしゃい。もう一度言うけれど、今夜抱いて貰いなさいよ。照れくさがる歳じゃないでしょ、幸せになれるよ」
「ーーーー」
「別の家に独りで暮らすのは、寂しいよ」
テーブルから立ち上がって、私はお婆さんの肩を軽く叩いた。スキンシップである:
「元気でね、またおいで」
「ありがとう、とても楽しかったわ。あなたって素敵な人ね」
立ち去りながら一度後ろを振り返ったら、お婆さんはこっちをじっと見ていた。私は軽く手を振った。
*
次の日のお昼、テーブルでドーナツを食べながら見渡したが、お婆さんの姿は無かった。抱いて貰ったろうかーーー?
「今まで養ってくれた感謝の印に、主人へバレンタインデーのチョコを渡した」と、お婆さんは言った。どうしてそんな言い訳を作る必要があったろうか? ご主人へ「貴方を好きだからよ・独りは寂しいから・抱いて下さる?」と、どうしてチョコに添えて正直に言わなかったろう? 夫の家へ出向きチョコを渡すくらいだから、「好き」なのはハッキリしてるじゃないか!
昨日のフランス製の晴れ着姿を見て欲しかったのは、スーパーでの買い物客や道行く人にではなく、夫にこそであったろう。晴れ着を着て、二人して家の近所をよたよた散策したかったに違いない。出来れば、小学生のように手をつないで。彼女は決してそう言わなかったけれども、私は女の「寂しさ・孤独」を改めて感じる思いがした。
夫だってチョコを貰って嬉しかった筈。「帰らずに、ここにずっと居てくれないか」と、どうして言わないのだろ? 人生は一度きりで、しかも終末期なのだ。一体誰に対して遠慮するのか、ヘンな夫婦だ。互いに相手の体温が欲しい筈ーーー。
日本の夫婦は「照れ臭い事」を言うのが、苦手。それに加えて、性をうしろめたいものーーーが刷り込まれている。抱き合うだけで充分なのに、それをしようとしない人は多い。孤独を自分で作っている。
忍び寄る老人性「孤独感・寂寥感」が「私にも」あるんだよと本稿で訴えたかった。それだのに、初めからお終いまで、人の孤独感を慰めるばかりの側になってしまった。やはり、精神科医になるべきだったかも知れない。もう一度アドバイスして置こう:孤独で寂しければ、他者へ「手を差し伸べる」事。ドーナツ一つ程度の「小さな差し伸べで良い」。先のお婆さんみたいに、じっと待っていてはいけないんだ。
因みに、私の配偶者は体の辛さを押して週に二日ばかり会社へ出て今も仕事を続けている。小さな会社だから、そんな酷い病人さえ働かせないと会社がやってゆけないのかーーー? いや、そうではない。頼りない息子の仕事ぶり(経理担当)へ、小さな、いや、彼女は大きな手を「差し伸べている」のだ。「死ぬまで私を働かせるーーー」と女はぶつぶつ文句を言っているけれども。
でも、ねえ、家にたった一人いて「孤独感に堪える」より、それが遥かにベストなのだと精神科医は考えている。そんな事をすれば、本人は病人だから確かに酷く疲れてしまう。そんな日の夜、毎回私は一時間は女の背中をマッサージさせられる。これも小さな「手の差し伸べ」かと思いながら、やっている。
完
比呂よし
2017.4.4




