疑いの芽生え
3.疑いの芽生え
けれども、何年か経ち経営者として場慣れして来ると、知能は発育し賢くなる。 昔、猿人が猿と人間へ分化したように、ウチでも社員と経営者の二つに分化する時期が到来した。今ではこれをダーウインに倣って、経営者の「進化」と私は呼んでいる。同じ釜の飯の仲間を外れて、私が規格外の不穏な動きを始めたと社員達は警戒したかもしれない。何故なら、先の社会正義にも似た利益1/3支給方式に、私が疑問を持ち始めたからだ。何が問題だったか?
ある年、会社の利益が伸びて、昨年は1000万円儲けたが、今年は倍の2000万円となった。この場合賞与は比例して増加するから、(社員数が同じだったから)営業員から事務員の端に到るまで一人当り昨年の倍額の134万円の支給になる。これは中小企業にあるまじき大いに莫大な額である。
自分が決めた支給ルールであった以上、社長と言えどもルールを守らないといけないから、実際にそんな額を支給した。ウハウハの社員達は、又パチパチパチの二重奏をして私を尊敬すらした。何人かは「社長は、そのうち文化勲章を貰うだろう」と期待した位だ。がーーー、支給しながら「釈然としないもの」を私は感じた。
人の「感覚」というのは、理屈よりも案外正しい事がある。 材料力学の計算上、この部品の肉厚は6mmで充分である、とエンジニアは数式を示して私に説明する。私は6mmのスリムな部品図を眺めて、「何となく薄いな」と何の根拠も無しに感じる。作って見ると、やっぱり、そこが壊れた。計算で見落としがあったのだ。何となくいけ好かないと感じていると、実はその女の方も私を積極的に嫌っているケースは良くある。
そんな神秘的な経験から、物事を眺める時「何となくの感覚」を私は大事にするクセが身に付いている。勘というやつ。
「釈然としない感じ」は、「疑い」へと発展した。先に述べた通り、大手のサラリーマン時代に、「儲け」は公平に分配されるべきで、それが社会正義だと長年信じて来た。今の時代でも多くの企業社員は、そう信じていると思う。それなら、この社会正義と私の感じる「釈然としないもの」の乖離は、何か?




