鶏( にわとり)
5.幸福度が高い
お昼のランチで、レストランや喫茶店へ入る。食事をしている特に年配の夫婦連れを、観察した事があるだろうか? 大概のケースで、互いに敵同士のように黙りこくって食事をしている。こんな言葉がある:「一緒に食事をしている夫婦たちの様子を見たまえ。彼らが押し黙っている時間の長さが、夫婦生活の長さに比例する」(劇作家 バーナード・ショー)
幸いにしてそうでなければ、こんなケースは非常に稀だが、言い換えれば味方同士ならば、おしゃべりを仕掛けているのは大抵奥さんの側。対して夫はウンとかスンとか、スポーツ紙のエロページか、三流週刊誌で強姦事件の成り行きを読み「ながら」、生返事をしている。
それに対して夫はウンとかスンとか、スポーツ紙のエロページか、三流週刊誌で強姦事件の成り行きを読み「ながら」、生返事をしている。
ウチの夫婦の場合でも似たようなもので、一緒に居る時、女のおしゃべりを携帯ラジオで軽音楽を聴くみたいに私は聴いていた。大抵上の空で、新聞を読みながら、鼻くそをほじりながら、TVを見ながら、生返事しながら---である。
しかし敵もさる者で、時々質問を発する。こっちがちゃんと聴いているかどうか試験するのだ。こんな時に曖昧な返事を返すのは禁物で、何やら訳が判らなくても取り敢えず、「僕も、そう思うよ」と賛意を表するに限る。これで七割方はすんなり行く。が、三割ははっとして頭を振り「もう一度言ってくれないか?」というハメになるが、そうなるとひと悶着である。
こんな男の性癖は私だけではないようで、先の喫茶店での観察結果も含めて、男は何時も「ながら族」だ。自分が男だからこそ断言出来るが、九十九パーセントの男がそう。
けれどもある時ふとした切っ掛けで、想う処があった。気が付いたのは、「女はなぜ男よりも長生きか」というのと、喫茶店などで「軍団を形成して、周りの仲間と上手くやっている」のは女の方が断然多い、という現実である。先ほどのランチタイムでも、若いのからお婆ちゃんに至るまで、年齢に関係無く女が二~三人群れて賑やかに食べている光景は珍しくない。が、男同士は顕著に少ない。
女達はおしゃべりという道具を使いこなして、仲間を上手に募っている。和気あいあい人生を楽しむどころか享楽さえしている風だから、「生きる達人」と見えなくもない。そんな人生上の不審を感じて一度訊いた事がある。女の応えは、先のバーナード・ショーの言葉と一致する部分があった:「奥さんがおしゃべりな夫婦は、概して家庭の幸福度が高いわ」
6.新発見.
怪訝な顔を向けると、こう解説をしてくれた:家庭を明るく保つのは、奥さんの「おしゃべり」が何より大切、と女は言う。「家で一緒に居る時に、隣でムシムシ本を読んでシンと静まり返った無口な女より、おしゃべりをしてくれる女の方が、明るくって好いじゃないの!?」と威張った。大した理由のない単純な理論のようだが、そう明快に指摘されると何やら含蓄のある気がした。なるほど、幸福とは案外単純な事の中にある。
元々男は私も含めて口数が少ないから、双方が同じ部屋に居て一緒にシンとしていれば、確かに家に幽霊が出るかもしれない。それに、先ほどのショーの「(夫婦関係の年月に比例するという)押し黙り夫婦論」の皮肉が、我が家に限っては女のおしゃべりのお陰で無縁になっている点だ。「確かになるほど」と私は頷いた。
一方でこうも考えた: 女がおしゃべり出来るのは「聴く人が居てこそ」だ。野原の真ん中に一人いては、おしゃべりが如何に達者な女とはいえ、延々どころか一言もしゃべれまい。自分にしては上等の発見と思えた。
新発見のついでに身の周りを眺めて、面白い事に気付いた: 私の女友達の「四十三バツイチ子持ち昆布」も、確かにおしゃべりである。 しかし、一方でほぼ同年代の社内の女事務員(=私の秘書を兼ねている)は、口が重く言葉を節約するタイプだ。万が一迫られてたとしても、家庭がシンと暗くなりそうな気配だから、この女とは結婚しないほうがよさそうだ。
そう言えば、晩年に夫婦仲が良く無かった私の両親の場合も、確かに母親がおしゃべりな方ではなかったなーーー。母親も私の結婚相手には相応しくないタイプという事になるか。
そんな基準を当て嵌めて身の回りの女を次々分類して行くと、結婚の幸・不幸や夫婦の仲の良さは、案外単純な処にありそうだと気づいた。神は細部に宿り給うというが、最も大切な事が一見どうでも良いように見える処に隠れている、ソレはコノ事かと女の言葉に妙に感心した:「奥さんがおしゃべりな夫婦は、概して幸福度が高いわ」 女は直感的に知っている。
次に、こんな身近なデータがある。先の女友達「四十三バツイチ子持」がこんな事を言った:
「男の友達と一緒にいるより、女の友達とファミレスでおしゃべりをする方が遥かに楽しい」と言う。同性と一緒に居る方が、おしゃべりが一層盛り上がるからだ。女三人の組み合わせがベストだそうで、キャッチボールが断然上手く行くらしい。
あれやこれやを考えると、「おしゃべり」と「そうでない」のと、二系統の女が居るかのように書いたけれども、間違いかも知れない。実は言葉数が少なく無愛想なウチの女事務員も、夫と仲の悪かった私の母親も、本当の処はおしゃべりなのかも知れない。ただ、相手が気難しい夫(私の父親)であったり、いけ好かない会社の上司(私)などが相手だったから、止む無く口数が少なくなってしまうのではないか?
こうなると奥さんが「おしゃべり」でないのは、実は女のクチの自由を剥奪している「夫のせい」かも知れない。幸・不幸は女のおしゃべり一つと思っていたが、背景は単純ではない。しゃべる雰囲気を提供する夫の尽力も大きいようだ。
7.鶏
男はというと、これが女ほど長生きをようしないし、メンツ第一である。男の沽券にかかわると思ってか、中年以上になると硬直的で気難しい人が多く、生きるのに不器用である。しかも、何処か孤独な陰影と寂寥が付きまとっている。要するに陰気くさい。
例えば古の歌人西行法師にしても、「ーーー夢は枯野を駆け巡る」の松尾さんにしても、近代の高等ルンペン山頭火にしても、「世捨人ごっこ」をやるのは、どうして何時も男なんだろう? 明るい女に比べて考えてみると、不思議でならない。
男は余り群れず、本人にすれば孤高を愛するのを誇らしく思っている風に見えるが、悲壮感が無くも無い。先日の喫茶店でのランチタイムだって、隣のテーブルで独りカレーライスを食っている六十過ぎのおっちゃんがいた。西行法師や山頭火と同じ雰囲気である。
この男、カレー汁に浸した飯粒をスプーンでひと掬いして、グイと細い首を伸ばすやゴクリと呑み込む。痩せカンピンで、干物みたいになった首だから、その度に喉仏があからさまに上下する。カレーの食い方は巧者だが、首の伸ばし加減から見れば通とまでは言えない。
一口呑み込み終わる度に、しみだらけの顔を虚空にかざして、やがて目を一度パチクリさせる。鶏が首を傾げて左右の目で、食い物のありかを交互に確認しているみたいだ。本人は新種の哲学を考えている積りらしいが、鶏との類似を考えると、滑稽の中に哀れがある。魅力ある男とは言い難く、鶏のほうがまだ増しで、もし女がおれば遅かれ早かれ見捨てられるタイプだ。