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0.3mの女

16. 0.3mの女


 社内の風紀を乱した先の事件に懲りた私は、男をきつく叱りクギを刺した。が、後になって知ったのだが、何事にも「ヘコタレナイ」男は私の目を逃れて、密かにクギの届かない深さまで潜っていたのだ。 テニスのラケットの代わりに、トーク・ショーに力を入れた。


 見せて貰ったから私が知っているのだが、マメな男は小さな手帳にトーク用の小話をぎっしり収集していた。中にこんなのがあった:「新婚の夫が、新妻の顔を早く見たくて勤め先から急いで帰宅したら、朝閉じた筈のトイレの便座が上がっていたーーー」。


 後任の新しい事務員は30少し前の独身であったが、テニスはやらない。代わりに宿命的な黒雲をトイレの便座付近から、もくもくと派手に上げるタイプだった。 

 この女は、先の男の便座のエロイ話を大層面白がった。うわばみみたいに大口を開けてケタケタ「笑った」から、笑いっぷりは先の人妻顔負けで、まるで独身らしくない。これはエンドルフィンの大量放出となったから、たちまちにして女の脳の快感部が痺れた。


 けれども男に誤算があった:この女の生まれつきの性癖を甘く見誤ったのである。他の社員らも、以前から薄々女の特殊性に気付いていたのにーーー。

 用事があって男子社員が呼んだ時、女はハイと答えて傍へ寄って来る。日本中どの会社でも同じだが、一般に女が3mまでしか寄り付かないのは、男に悪臭がある為か、それとも女に嫌われている証拠である。1.5mは正常範囲内で、0.8mはやや親しげ。


 あにはからんや、この女は何時でも0.3mまで接近して来るクセがあった。0.3mとは30センチのことで想定外の短距離なので、呼んだ男子社員が思わず後ずさりすると、後ずさった分をこの女はすっと詰めて来るーーークセがあるのだ。元々スキマ風が嫌いなたちで、男子社員の年齢・美醜を問わず、誰に対してもスキマを作らない方針だった。


 初めの内、女が近眼のせいで距離感が掴めないためかと怪しんで、それとなく私は訊いた。「視力は1.5です」と、耳の直ぐ傍で生暖かい息を吹き掛けるようにして応えたから、流石にこっちも思わずゾクッと来た。


 こんな訳で0.3mの範囲内で、女の妖しきフェロモンがすぐ傍で立ち昇るのを意識しつつ、仕事の打ち合わせをやる事になる。特にこっちが壁際に立っている場合、逃げ場が無いから追い詰められた感じになる。飢え死にしそうな人の目の前に、うまそうな饅頭を置いて「食うな!」と言われる様な試練だから、ウチの男子社員は誰しも崖っぷちで忍耐力を試された。


 しかし、ここは神聖なる社内。そんな国境まで0.3mというぎりぎりの海域で展開する女の軍事演習にも、私を含めて大抵の男子社員らは「ぐっとこらえて」、大砲を撃つような真似はしない。 が、我が愛する当の男Kは、ついフラリと女の腰へ手を回してしまったのだ。状況からして男が何もかも悪いとは決して言えないのだが、これが「運命のワナ」に嵌った瞬間であった。



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