◎第四十一話: 「目で舐める」話
◎第四十一話:「目で舐める」話
1.ハタと困惑
歳のいった人から話を聞くと、何か人生の味を感じる時がある。と言いながら、今や自分も既に六十七で充分歳がいっている。また、修行を積んだような高僧とかいう人から聞くと、頷く処もある。と言いながら、自分が高僧の歳を既に越えていることがある。
大体こんな話が多いのではないか? 色即是空・金は塵あくた・出世にあくせくする愚かさ・少欲知足(=欲を少なく足るを知る)の大切さ。
誰がそんな事を言っているのかだって? えっ?余所じゃ、歳がいっても人はそんな事を言わんのですか!? じゃ、名指しをすると触るから、無難な処を選んで、取り敢えず私が言っている事にしておきましょう。
先日三十前の若い甥っ子と、喫茶店で話をする機会があった。私の歳を眺めて、「さぞ偉い人生訓と悟りやあらん」と思うのか、私を立てて尊敬してくれる。自分の歳に相応しく、こっちも何か気の利いた講釈や深遠な思考を垂れたい! 私も言いたいことは沢山あるが、ここで膝を打って「ハタと困惑した」。
人生訓を垂れる人は、それなりに「歳を喰っている」場合が多い。私も例外ではない: 死ぬのが間近いから、もう女だって抱けない。女なら男へ無関心。金があっても使い道がないし、使う体力も乏しいーーー。
と来りゃーーー嫌でも、色即是空・金なぞ塵あくた・少欲知足と考えるのは、実は当たり前なのだ。人間「細かい事に拘るな、大志を抱け!」と教えても、なに、これは自分が年を食って細かい事をやるのが億劫になっただけ。
となれば、それらは特別高尚な思考でも何でもありはしない。辞世の句を聞かされるようなもので、(生きるのを)「諦めた」言葉でしかない。と、そう思いませんか? だから、甥っ子を前にして「ハタと困惑した」。
こんな有様だから、若い人は年寄りの(高尚に見える)思考や悟りとやらを、余り有り難がって聴いてはいけない。死にぞこないのルンペンの語る幽霊哲学と、似たリ寄ったり。




