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花を飾る前に

++++誰の例外も無く、「人肌が好き」という以外に無い。マッサージ教室の女達の言葉は「素直な人の心」であるようだ。それ以外の答えを期待した私の方こそ、邪道であったかも知れない。


4.花を飾る前に


 一方、作家の坂口安吾は孤独について、こう言っている:「人は最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを(自分は)知った」と。私はそこまで酷い孤独感に襲われた経験ないが、深い孤独に陥る時、人の心はほの暗く、寂しく冷えびえと寒いに違いない。


 「温かいもの」に触れたくなるのではあるまいか。それが「人の肌」なのだろう。人の肌と言っても、孤独な場合に求めるのは愛とか好きという激情的なものではなく、「縋って包み込まれたいもの」なのかも知れない。孤独感がもっと強い時には、「肌に触れる」程度ではぬくもりがなお足りず、中へ埋もれてしまいたいような温度を求めて、人を抱きしめたく(又は、られたく)なるのだろうか。それを好色と安吾は表現したが、深い孤独に陥る時、人は慰めの本当の意味を知るのかも知れない。


 話が変わるが、東北地震が起きて、大勢のボランテイアが現地に向かった。私はそれらの人たちが「何故そうするのか?」と不思議に思った。困った時の人助けは「当たり前」じゃないか、と片付けるかも知れない。が、私の知りたいのは「なぜ、ソレが当たり前か?」である。


 将来自分側に何か不幸事があった時に、お返しを貰いたいという打算でも無さそうだから、ボランテイアは自分が何も得をする訳ではない。割が合わないから、これもまた「経済の話」ではなく、考えて見れば「不思議な人々の行動」ではある。先の「なぜマッサージなのか?」という先の質問と似ている。


 マッサージ教室と「共通したもの」がある気がする:「人肌に触るのが好きーー」→「人が好き」なのではあるまいか。外に何の理由も無い。言うなれば、ボランテイア達は、東北方面に向かって人肌を求めて「触りに・触られに」行っている。更に、安吾の言うような孤独感も介在するかも知れない。


 親しい人が重い病になったり憔悴している時、或いは死の床にある時、優しい言葉や美しい花を病室に飾る前に、人としてもっと大切な物を忘れていないか? 深く抱きしめる事は出来なくても、その人の手を、時にしみだらけの手を、ただ柔らかくじっと握って上げるだけで好い。それが心の籠ったプレゼントであり、一番の慰めになるのではないかという気がする。

 西洋人の握手は、決して悪い習慣ではない。


比呂よし



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