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◎第三十一話: 鬼十則の話

◎第三十一話: 鬼十則の話


1.クラーク博士


 社会に出て歳も未だ浅い頃、やり手の先輩を眺めて、「凄い人だ」と憧れと敬意を持った。到底自分はあの人のようにはなれないなーーー。そんなコンプレックスに陥っていたのに、年を経て同じような歳に達すると、「なんだ、それほどでも無かったんだな」と思う時がある。


 無論逆の場合もある。 端から見くびっていた年若い人と話していて、優秀さを知り真価を覗いた気のする事もある。舌を巻き「後世恐るべし」と思った。今でも覚えているが、それらは仕事を通じて親しく知り合った 「ブリヂストン戸塚工場」の(当時は下っ端の)若い人であったり、「三菱重工神戸造船所」の複数のエンジニアなどであった。(来る筈はないが)「ウチへ来ないか?」と誘いたかった。喉から手が出る程欲しかったのだ。

 これらの話は、何時か別の機会へ譲る事にしよう。


 また、相手が大して学の無い年寄り百姓だと思って内心小ばかにしていたら、話を聴いている内に、野菜一つ育てるにも研究と自然への深い洞察があるのに驚ろかされ、翻って自分の「底の浅さ」を知って、内心で赤くなった時もある。亡くなったが、これは私の配偶者の父親、つまり義父である。もっと尊敬しておけば良かったと思うが、もう手遅れだ。


 そのタネが我が配偶者へ配剤されていると思うから、遺伝的に私は彼女に余計に頭が上がらないのかもしれない。そう考えると、人間万事謙虚でなければならないと思うのだが、こと自分の話となると自己愛が強いせいで、ワレがワレがと出しゃばってしまい、思うようには行かない。


 例えば、「正直であること」は子供の頃には全人格を占めるが、40も過ぎてとうが立って来れば、それは人格の一部分に過ぎなくなる。物事の評価も見方も、自分の成長に合わせて変遷するからだろう。これに似て、同じ箴言とか語られた言葉であっても、「若かった当時」に接した時の印象と、「年を経て」再び接した時とで、印象が百八十度まるで違う事がある。私には、そんな経験がある。


 例えば、若い時代に聴いたクラーク博士の有名な言葉「少年よ大志を抱け!」も、その後に続いて「ーーー年寄りの私のように」と付け加えれば、何やらユーモアを感じるではないか。老人は「大志」の専売特許のようだ。今回はこれに似た話:




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