一人書展
6.一人書展
実はこれら私の身近な人が書いた(上手な)文字の中から何点か撰んで、スキャナしてPDF化し、パソコンに大切に保存している。
配偶者のも含めて、事務員の文字も、先の筒井さんの文字も、あるいは仕事上や私的に葉書を貰ったりして「美しい」と感じた文字を保存している。密かな私のコレクションで、展覧会で鑑賞するのとは違う基準で選別されている。
それらの字を時々パソコン画面に写し出して、「美しい!」と感動しながら「一人書展」の積もりで鑑賞している。そんな時、先の筒井さんの場合と同じように、文字がそれぞれの書き手の人柄とぴったり寄り添って心技一体に見える。
流行りのストーカ行為と間違えられてはいけないから、「一人書展」の趣味を誰にも内緒にしている。私の配偶者のように毎日顔を合わせる人もいるし、書き手とは何年間も逢って居ない人もいる。収集している数も、切手のコレクションみたいに何百とある訳でなく、人で数えて精々十数点に過ぎない。
美術館や博物館で展示物を眺めるとき、事前に歴史や時代背景を知っておれば、味わいが一層深くなるのは誰しも経験する処。私のコレクションしている文字について、書き手の人となり・生き様・その人にまつわる歴史や出来事を、こっちは既に「よく知っている」。だからこそ、一層深く「美しい文字」として味わいが深いのだと思う。
そんな十数点の中で、一番「見飽きない」のは、実を言うと配偶者の文字。つい、「流石だ」と思ってしまう。字の一つ一つに、私たちの思い出が詰まっているように感じるからだろうか。事務員が「奥さんの方が上手です」と言ったのは、この字の「見飽きなさ」の中に隠されている気がする。
冒頭の字の上手な女事務員は四十で、容色は衰えず今もってなかなかの美人である。にも拘らずーーーと強調したいが、彼女の文字も同じようにパソコンに取り込んではいるものの、眺める回数は少ない。確かに美しいのだけれど、何処となく乾いた感じがする。
コレクションには、残念ながら若い人の書いた文字は一つも混じってない。若い人に上手が居ないという訳ではないが、気のせいか文字に何か厚みと重みが足りない感じがする為だ。
「美しい文字」とは、墨やペンの濃淡や線の曲がり具合だけでなく、また展示会の構えた書道でもない。賀状に有り勝ちな流麗な文字と言うのとも、少し違うようだ。書き手の魂と人生のキャリアを渾然一体になって感じさせるのが、本当に「美しい文字」という気がする。
私がこのように美しい文字に惹かれ続けるのは、人生で一番最初に貰った彼女からの手紙の字の「衝撃的な美しさ」が、切っ掛けとなり忘れられない為かと思う。多感な時代に強く刷り込まれた。男性にせよ女性にせよ、字の上手な人を私が「好きになってしまう」クセは、生涯治らないようである。
完
比呂よし




