もう一度眺めたい
４．もう一度眺めたい
今でも忘れ難い、若い日の思い出がある：
大学時代に彼女が出来た。当時はネットメールなんて無い時代だったから、手紙で文通した。私より一つ年下で、小柄な愛くるしい女性だった。中学校が同じだったのが、縁。封書で定期的に貰う手紙が、目の覚めるような達筆であった。生涯でこの時ほど自分の悪筆を恨んだ事は無い。私の母親でさえ、当時彼女からの封筒の宛名書きを眺めて、感嘆した。
闊達な字で力がみなぎり堂々としていた。女らしい感じではなく一種近寄り難い雰囲気さえ漂い、言うなれば古武士を思わせるように、背筋にピンと通る気品があった。彼女の愛くるしい印象からの余りの隔たりに、随分と面食らったものだ。
初めて手紙を貰った時どうしても信じられず、「一体、本当に本人が書いたものなのか？ それとも誰かへ代筆を頼んだのではあるまいか？」と疑った：印象や風貌が正しいのか、それとも字の方が正しい姿なのか。字の方が正しいとすればー――と思うと畏敬の念さえ感じたものだ。
字に惹かれて恋をしたようなもので、私は痺れてしまった。ビジネス関係を含めて数々の文字に出逢ったが、そんな立派な筆跡の書信を、七十過ぎの歳まで外の人から貰った覚えが無い。彼女の引越しもあり、大学卒業後まもなく別れてしまった。今に思えば、貰った書信の封筒の一通でも、残して置けばよかったと悔やまれる。
推測すれば、彼女はペン字の練習で「男の先生」に付いたからではなかったか、と思う。男らしい立派な字を書く先生の筆を真似る内に、そんな字姿になったのか。「女らしい字・男らしい字」の観点から言えば、そこから外れた正反対の文字に見えた。達筆の秘密を訊いておけば良かったと今でも思う。
けれども、あれから歳を重ねさらに成長して行く過程で、彼女は多くの他人の筆跡を見る機会があったろうから、やがては自分の人柄にぴったり添う、言い換えれば、最も相応しい更に美しい文字へ進化したのではないかという気がする。これは勝手な想像ではあるが。今の歳になって、必ずしも彼女に会いたい訳ではないけれども、今どんな文字を書いているのかと思うと、もう一度眺めてみたい気がする。
