マニキュアを選ぶ
22.マニキュアを選ぶ
すれ違いながら何年かが過ぎ、男に支えられて七つ歳下の女は六十を一つ越えた。体調の優れない女が男を憎み続け、男が女へマッサージをする習慣は変わらなかった。
ある年の初め、男は女の為に温暖な南西諸島周遊十日間の、豪華船による船旅を予約した。沖縄や台湾へも立ち寄る大型のクルーズ船である。その年の秋に出航する予定で、医者も乗船するとの事であった。船室はゆったりした贅沢なスイートルームを選び、二人分として260万円を支払った。
十日間の割には安い額ではなかったが、男は女に慰めを与えたかったし、夫への憎しみ以外に僅かでも笑いを思い出させたかった。もしどうしても男と同行するのを女が嫌がるようなら、男は自分の乗船切符を女と仲の良い彼女の妹へ、無償で譲ろうと考えていた。代わりに妹が女へ同道して呉れるなら、それでも良かった。
秋になりいよいよ乗船が1ケ月先に迫って、女は比較的体調が良い日曜日を選んで、男の運転する車でSデパートへ出かけた。先ずネクタイ売り場へ寄った。どれが男の首を絞め殺すのに一番便利か考えながら、筋金入りの頑丈な小豆色の蝶ネクタイを女は選んだ。
その後で化粧品売り場へ移り、自分が着るロングドレスに似合うマニキュアを探した。蝶ネクタイもマニキュアも、船内で催されるパーテイや晩餐会に出席する為の飾りである。
船内では旅客の無聊を慰める為に、乗客だけでなく船長・機関長・乗務員らも正装して仲間に加わって着飾り、見せあって、大人の集いや雰囲気を楽しむ夕べが数日毎に催される。船内に大きなホールが幾つもあり、一緒に観劇や音楽会やダンスを愉しむ。
こんな特別な日をドレス・コードといって、午後5時以後は、通路も含めて船内全域が、船長の命令一下フォーマルな服装以外は禁止となるのである。精一杯着飾ったレデイと、エナメル靴とタキシード姿のジェントルマンが船内にあふれ、別世界が出現する。
特に女の乗船客は着飾る楽しみだけの為に、高額な金を払って船旅に参加する位。乗船客と言えども、通なのである。街中であれば、気取り過ぎて気恥ずかしい衣装や帽子も、船内ではファッションショーみたいに堂々と身に付けられるのが、客船とパーテイの世界。そこでは気取らない人種こそ罪悪であり、どうしようもない田舎っぺなのだ。女王様となり、最高の「女の見せ処」である。
そんな目的の為に、売り場でマニキュアの色を選ぶ女を眺めて、男は心からほっとした:女を忘れていないーーー。
生きる意志がある証だと思った。体が苦痛に襲われる度に「死にたいーーー」と呟くのは、女が「(男へ)甘えている」のだーーー。実際にそうでなくても、男はそう思いたかった。




