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色あせない女

21.色あせない女


 そんな中で幸いな事が一つあった。ほぼ一年半が過ぎた頃から、痛む事に体が倦み疲れるせいか、痛みが次第に穏やかになった。錐を捻じ込まれるようなヒリヒリした鋭い痛みから鈍重な痛みへ変化したと言う方が正しい。治りはしないが、急性症状が緩寛期に移行したのである。言うなれば、慢性化である。


 この変化を観察して、女は痛みと共生する方法を模索した。痛みがどうすれば一層酷くならないか、食事の内容を工夫して試したり、意識してストレスをコントロールするように努めた。そうして時々得られる短い緩寛期を少しでも長びかせて、息をつきつき半人前で生きる方法を編み出そうとした。


 そんな限られた緩寛期の中で気持が時々ほっとした時に、女は自分の会社へ出向いた。気が紛れるからでもある:「痛い痛いと思いながら、ベッドに横になって白い天井を一日中眺め暮らすよりはましーーー」 


 痛みをだましだまししながら数年が過ぎて行ったが、少しでも無理をすると酷い下痢と腹痛がぶり返して下血し、振り出しに戻った。緩寛期と言っても、体の深い処で痛みが消える事はなかったが、少なくとも表面上は穏やかに見える時が一週間単位くらいで定期的に訪れるようになった。


 一方で男は週末に町の教室に通って、半年間マッサージの勉強をした。習った技術で女の背中をマッサージした。それ以外に治療法らしきものがない。自分が疲れている時でも、これを中止する事はしなかった。マッサージという口実で体を触ってやれるからで、言葉だけでなくスキンシップが幾分でも女の心へ慰めを与えるかも知れないと男は考えた。


 けれども、体を触わられながら女は男を憎んだ。憎む事が痛みを紛らわせ、一つの生きる支えになっている風に見えた。時折低い声でつぶやいた:「絶対に、一緒のお墓に入らないーーー」

 一時間ばかりの全身のマッサージが済むと、「自室へ行ってくれ」と女はまるで命じるように毎回男へ促した。女にとって男は、用が済めば、もう傍におられるだけでとうっとうしい、同居人に過ぎなくなっていた。女は変わった。


 緩寛期になっても、本当は女の深い処で悪化して行った部分もある。繰り返す下半身の痛みと体の酷いだるさは、女の精神を蝕んだ。投げやりになり、次第に元気の無い影のような人間に変わって行った。独りぼんやりする女を見るのは、辛い事であった。「死にたいとーーー」呟いて、男を悲しませた:せめて積極的に自分を憎んで欲しいーーーと思った。


 「人を愛する」のは、健康な人には自然に出来る事のように思える。けれども、長期に痛みに苛まれて肉体も精神も疲れてしまう時、はっきり自覚する人は少ないが、愛とは自然なものではなく気力と肉体的なエネルギーを消耗するものだと分かる。言い換えればソレは「ひと仕事」なのであって、人を愛したり思いやったりする余力は、残されていないもの。

マッサージが済むと部屋から「出て行ってくれ」という女の言葉がソレで、弱わる女を眺めていて、男には良く分かった。


マッサージで女の体を触ってやるだけで、男は充分満足に感じた。暴言を投げられても、昔の健康で生き生きしていた女の姿は、不思議に男の中で色あせることが無かった:顔を舐めまわしてヒーチャンを好きで堪らず、何をするにも甲斐甲斐しく、美しかった。


身近に居る限り、女の気持ちを汲み男は直ちに最優先した。マッサージを含めて、女を愛するのに男は手を抜かなかった。女が昔男を愛したのに手を抜かなかったと同じように、見返りは要らなかった。女が男を憎み変わってしまったように、男も違った風に変わった。夫婦の関係は変わり、夫婦とはそんなもんなんだと、男は思った。


 あくる年の三月三日の節句の日。貯めていた数か月分の小遣いをはたいて、男はその専門店でもっとも立派な雛人形を買って帰った。和室に飾って、灯りをともしたら、女は単純に嬉しがった。愛されなくなっても、自分の愛する人間がそばに存在するのは、少なくとも何も存在しない人よりは、「自分は幸せではある」と男は考えた。時々、黄色のバラの花束も買って帰った。


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