白い顔
17.白い顔
女は直ぐ命に関わる状態ではなかった。けれども、病の辛さが昂じてヒステリックになり勝ちだったから、女の意に逆らったり刺激をするのは、病気の為にも決して良くはない。女の気持ちを少しでも和ませる為に、男は自分が仮に家を出て、暫く近所のホテル住まいをする事にした。女の「言いなり」に追い出された風にしたのである。
「考える時間」を与える結果になったが、女の為に良かったのか悪かったか、男にもよく判らない。というのも、一週間ばかり追い出された男の不在中に、事態は予想外の方向へ動いたからである。
「締め出したり」・「出て行け!」と言ったりしたものの、男が永久に戻って来なくなるのではないかと女は不安になった。棲む処を失った男が可哀想になった。男のことばかりが気になった:元々異常な位い好きでーーー、男の箸の上げ下ろしも気になったし、コーヒーを飲む時にはミルクを調合してやったし、頼まれもしないのに男の同窓会へも一緒に出席した。姑との熱い戦いにも勝利して、男を確実に自分のものにした。男が自分の人生の全てであった。
けれども、男が自分の人生の全てであるならばーーー、難しい業病に導いたのは他でもない男のせいに違いない、と女は考え始めたのである。ある意味、これは正しい。あらゆる矛先を男へ向けた:
過去にまで遡って、男と一緒に生きて来た長い道のりを振り返った。その中に、結婚前に男の不実で、自分が胃から血を吐いて入院した事件も思い出した。あれもこれも男のせいだったではないか。長年自分は男に良い様に利用されて来ただけではなかったか? 次々と思い出しては考えが堂々巡りし、考え過ぎて女は疲れ果てた。
男を責めるべき証拠が有り過ぎた。ーーーついに、この男こそ自分の業病の元凶だと立証し判決を下したのである: こんな男と結婚などすべきではなかったーーー。情状酌量の余地はなく、判決は死刑である。これが女の中で動かない確信となった。
男を憎悪し始めた。締め出された男がホテル生活を余儀なくされている間に、憎しみは女の中で丁寧に熟成され、着々と膨らんで行ったのである。
女のそんな変化を夢にも知らない男は、暫らくして女の感情が落ち着いたかに見えたから、多少のんきに構えてホテルから自宅へ戻った。この時女の顔が以前より白くなり能面みたいに無表情になっているのに気付いた。目は険を含み、他人を見る目付きになっていた。一言男がものを言うと、女は身を震わせて激しい憎悪を示した。そこに、「ヒーチャン」と呼び掛け親しみを示していた以前の女は、もう居なかった。
「一米以内に近づくな!」獣が牙を剥いくような言い方をした。環境が天変地異の如く一変したのに気づき、男は戸惑った。深かった男への女の愛はそっくり同じ量と深さの、いやそれ以上に強い憎しみに変わっていた。男は世の中で最も邪悪で冷酷な悪者に仕立て上げられ、嫌悪し復讐すべき外敵と見なされたのである。
過去の日記帳を繰るようにして、記憶力の良い女は男の前でいちいち男の犯罪を暴いた:昔、つわりで女が苦しんで居る最中に、男が独り遊びに行ったとか、女が残業仕事をしていた折に男が手伝わず、さっさとプールへ遊びに行ったとか、一緒に会社をしているのに男が家事を手伝わなかったとかーーー。
「貴方の思い遣りが無かったから、こんな業病に罹った! 貴方は鬼よ!」
そう言われて、男は素直にそうだと思った。女の愛の深さに比べたら、鬼に違いにないーーー。




