第五百六十六:泰子さんの話(463) ★社歴(4)
第五百六十六:泰子さんの話(463) ★社歴(4)
一つには自分が非常に用心深い点が挙げられる。神経的な用心深さでパラノイアという。よく例に使われるが: 冷蔵庫の扉を閉めたあと、内部のランプがちゃんと消えたかどうか、気になって寝付かれないーーーというやつだ。自分の目で確かめないと信用しない。
忘れもしない、バブル景気が崩壊して売り上げが激減した時だった。冷蔵庫のランプどころの騒ぎではない、神経質で小心が故に震え上ったものだ。徹底的に悪くなる前で未だ会社に充分余裕がある内に、過剰とも見える対策を素早く取ったことだったか、と思う。寝ても覚めても考えて、1ケ月以内にやった対策はこんなものだった:
①素早く、関東営業所を全面閉鎖したこと。
・関東は日本の市場の中心地区だから、関東で看板を外すのは商売を辞めるようなものだ。大きな決断だったが、ためらわなかった。結果的に営業拠点が神戸の本社だけになって、実にサバサバした。営業経費削減策として大ナタを振るった。
②新たにレンタル事業を開始したこと。
・これは何気ない風に見える新政策だが、様々な障害があって、製品の販売会社にとって大きな決断だった。
製品を売る代わりに、同製品のレンタルを開始したのだ。これは製品の販売減を助長するようなものだと周りからは思われた。証拠に、同業他社の何処も追従せず真似をしなかった。自滅へ至る近道と見えたらしい。
更なる最大の強敵はウチのドイツの親会社の存在だった。レンタルを始めたら、ドイツから日本への製品輸出量が減少するからで、彼らは私の考えに大反対した。ウチの大株主であったから、私の首が掛った。それでも強行した。何気ない風に見えたシンプルな政策なのに実行はとても困難だったが、私は頑固にブレなかった。偉いか? 少しも偉くは無い、会社が潰れるよりマシだったからだ。
★結果を先に書いておこう:このレンタル事業の開始は大成功の結果になる。実に先見の明があったと言われる。が、実際の処はリーマンショック直後の最悪の不況下で、製品が全く売れなくなり「積み上がった」在庫品の山を眺めて、「倉庫へ寝かせておくよりも、少しでも日銭を稼ぐ為に」レンタルでもやってみようと考えた。それだけの事だ。先見の明どころか、切羽詰まって他に方法が無かった。
けれども自伝を述べるとなると、他の成功者が語る時と同じように(以下のように)美しく英雄的に書かれって訳だ:
つづく
 




