離婚の申し出
16.離婚の申し出
それから半年後、女は突然離婚を申し出て、男を驚ろかせた。
病人と健康な人は、食べ物も違うし考え方も生活も違うから、同じ世界に住めない。だから同居すべきではない、と女は理屈を考えた。健康な人を巻き添えにして生きるのは、病人のエゴだとも言った。「好きなヒーチャンの為に、もう何もして上げられない」と、嘆いた。
自分の働き分で貯めていた金の殆ど全部を使って、女は勝手に新築マンションの一室を購入した。独りで生きる利便を考えて、地下鉄の駅そばである。相談も無く大金を投じた女の思い切りの良さに男は驚いたが、同時に女の悲しい考えを知って、強いショックを受けた:
女は男に好かれる事だけを望んでいた。このままでは、遅かれ早かれ男に嫌われるようになる、と恐れた。それならいっその事、自分から先に手を打って身を引こうと考えたのである。
一方で体調の悪さは女の感情を荒れさせた。理屈の通らない理屈を作って何時も機嫌は斜めになった:なぜ離婚させてくれないの!とゴネた。自分の感情を整理出来ず、ヒステリックになった。「もう顔を見るのも嫌! 離婚に同意しないのなら」と言い募り、女は強硬手段を取った。勤務から帰宅した男を家に入れず、内側から鍵を掛けるようになった。男が何か言うと、意味もなく猛りたった。
女の言動は矛盾していた。なぜなら、男が嫌いで本当に離婚したければ、自分が購入した新しいルームマンションの一室へ、女が一人勝手に移り住めばいいようなものだったからである。「離婚してくれ」の要求は、男を試す為のテストのように男は感じた。
同居を望むのは病人のエゴだと偉そうに言うのも、高額なルームマンションを買ってしまったのも、男を家から乱暴に締め出して鍵を掛けるのも、女は賭けをしているのかーーー? 最も不利な状況へ自分を追い込み、それでもなお男が離れて行かないかどうか試している。まるで姨捨山であるーーー。悲しい賭けだと男は感じた。
長年一緒に暮らしていたのは、一体何だったのか? 確認のテストをしなければならないほど、それほど夫婦は理解し合うのが難しく、はかない関係であったろうかーーー。
少なくとも、女にそう「思い込ませる」ような自分だったのかと思うと、己の不徳に男は下唇を噛んだ。長年仕事中心で、女が全面的に注いでくれた愛に対して報いる処が少なく、思いやりに欠けていたのは確かだ。今の女の心根を思えば残酷でさえあったのだ。思い至って、男はたまらない気持ちがした。
こんな場合、相手を慰めるのは難しい。神経を研ぎ澄まして針先一本が落ちる音に女は聞き耳を立てている。慰めの言葉を言えば、言葉の裏を読まれる。「夫婦だから支え合う」と言えば、夫の献身と忍耐と犠牲と、それに偽証の響きさえ読み取るに違いない。「今までの苦労に報いる」と言えば、ギブ&テイクの商取引になってしまう。
男は別居にも離婚にも同意せず、鋼のように堅く強く反対した。ただ不器用で、口上手には言えなかった:仮に女の肉体がすり減って残りが腕一本だけになってしまっても、いや例え残り少なく髪の毛一本になっても、「それを抱いて夜を寝る」と男は女へ言った。それ程までに女を好きだからーーーと話した。
女の病へあらゆる献身と忍耐が必要だとしても、それらは「女を好き」な事に比べたら、些細なものだと男は話したのである。
男は女へ「好きだ」と、毎日言う事に決めた。それを言う理由はなんでも良かった。乱暴でヒステリックな言葉を女から投げ付けられても、それは病気がさせる意地悪なのだと理解し、バカ正直な男はビクともしなかったのである。




