難しい病
14.難しい病
医者がむしろ控え目に言っていたのは、直ぐに証明された。繰り返す下血は、やがて女の体力を奪って行き、激しい目まいに襲われるようになった。髪を梳く度に、櫛の歯に絡まって長い抜け毛が何本と無く残った。残り惜しげにそれを眺めて、病が容易ならざるを女は初めて自覚した:「仕方ないーーー、人は何時か死ぬ」
遠い目をして低い声でそうつぶやいた女の横顔が、傍にいる男をはっとさせた。昔を思い出した:結婚前に女の実家を訪れた際、神棚に向かって祈願しながら男に見せたのと同じ横顔であった。鋼鉄で出来ているみたいに冷い光を反射していた。どうして自分みたいな人間を女が好きになったろうか、と男はふと思った。
女の病に、自分に結果の責任があるように男は思った。少なくとも自分を好きになってなければ、そんな忌まわしい病など発症はしなかったに違いない。
女に対して思いやりがあったり、充分優しかった訳ではなかった。それでも不思議に二人の結婚生活には、世間で言うようないわゆる倦怠期が無かった。長い年月を経ても、女は「ヒーチャン・ヒーチャン」と男へ親しみを持ちつづけた。女は何処を好きになり何を男に求めていたのだろうか?
潰瘍性大腸炎(UC:特定疾患の難病)という文字通り難しく苦しい病であった。免疫異常で、最悪の場合大腸の摘出を余儀無くされる。油汗を流すような腹部の酷い痛みや血の混じる下痢の症状が一時治まったかと思うと、突然頭が割れるような頭痛が起きたり、少しでも触れると、腕や背骨に飛び上がる程耐え難いの痛みに見舞われたりもする。何時も体が熱っぽく、体の芯が衰え何をしても直ぐに疲れ、疲れると下血を繰り返した。
足の裏に直径が一センチの深い穴があいた事もあり、歩けるように男が底部に小さな穴をくり抜いた特別の草履を作ってやった事もある。対症療法として、医者も、大量のステロイド剤を騙し騙し使う以外に、治療のしようがなかった。
ステロイドはホルモンの一種で、魔法の良薬とも悪魔の薬とも云われる。効き目抜群で直ぐに劇的な効果を現すものの、そのまま継続服用するとムーンフェース(=顔が丸く腫れる)を作ったり、危険なほど鬱な精神状態を引き起こすなど弊害があったりする。投与量を次第に増やさないと効き目が無くなるのも怖い処で、しかも生涯に使える累計量が決まっていて、扱いが難しい薬である。
外にも免疫反応を鎮め体を楽にするペンタサという薬剤もあるが、命に拘わる酷いアレルギー反応を起こす体質の女には使用出来ない。女には有効に使える薬が何一つ無く、だからこそ難病であった。
治療に希望が持てない上に、本人にしか判らない痛みと苦しさに女は苛立った。「元気を出せ」という慰めの言葉に、女は傷ついた:
「何に向かって、元気を出せと言うの!?」
男は黙った。鈍感な男は結婚以来初めて「女へ優しくする必要性がある」と感じた。




