第五百:泰子さんの話(397) ★父の日記から(その8)クリスマスの話
第五百:泰子さんの話(397) ★父の日記から(その8)クリスマスの話
「恐らくはただ一人なる読者として父の遺せし日記読むなり」(吉村一)を、今も私は継続している。以下は、昭和54年1月10日と昭和58年12月20日(父が68歳の時と72歳の時)父が書き遺した記述である。
前置きとして、筆者の息子の注釈: 父は先の通り、68の時と72の時の二つの記述がある。けれども、それらは別々の手帳で、書いた年度も4年の違いがありながら「同じ内容」を二度繰り返している。余程苦しかった思い出だったからと思われる。家にお金が無かった事であった。
書き方に多少の違いはあるが、同じ内容をここに二つ転載するのは余り意味がない。原文を出来るだけ生かしながら、独断で以下の通り「一つの話」にまとめた。
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毎年年末がきて巷にXmasのジングルベルが鳴り始めると、今の歳(72)になっても決まって思い出す事がある。あれから約30年が経つ。昭和28年頃(父42歳)で家族の子供たち4人(=私を含めて)は小学生だった。当時は高度経済成長時代とか神武景気とかいっていた。街は華やかなクリスマスの売り出しで沸き返るような感じで、ジングルベルがあっちの店でもこっちの店でも聞こえた。
それは日曜日ではなかったように思うが、昼間神戸元町の大丸デパート前を歩いた事があった。この時に親子3人連れの夫婦を見掛けた。自分の夫婦と同じ年代で、連れていた子供は小学生の三年か四年生であったろうか。買い物を終えたらしく、3人はそれぞれに大丸の大きな紙包みを持って居た。思わず立ち止まったまま、私は歩き去る3人の姿を暫く眺めた。
羨望を感じた。同時に強い腹立たしさを覚えたと思う。我身に引き比べてあの家族は何と裕福でゆとりがある暮らしなのだろう、幸福そのものみたいな家族が日本にあるのだと思った。「ある」どころでなく、そんな人々が数少なくないからこそ、いや数多いからこそ、それを当て込んであちこちの店店がジングルベルをならしていた。
自分の家族は社会の喧騒と豊かさから、置いてけぼりを食っていると感じた。
つづく
 




