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第四百六十五:泰子さんの話(362) ★父の日記から(その2)県庁勤めの思い出(4)

第四百六十五:泰子さんの話(362) ★父の日記から(その2)県庁勤めの思い出(4)


 歳が若かったのに発電所所長や次々と重要な仕事を任されたのは、当時が学士様という時代で、学歴という資格が尊重されたためかと思う。人というのは経験がなくても次々と重要な責任を任されてみると、案外(学歴に無関係に)勝手に育って行くものかと思う。


 証拠に連絡船の予算管理など電気技師とは全く無関係な仕事であった。追って述べるが、行く行く私は電気とは全く無関係な分野が生涯の仕事になって行く。


 そうこうする内に国際情勢はいよいよ緊迫して来て、県が所有する数カ所の発電所は電力統制法によって二つの配電会社へ移管される事になった。県としても最重要なプロジェクトで今から思えばこれは大変な仕事であったが、30そこそこの自分が一人で仕切る形となった。内務省(当時)から出向して来た官選知事や官房長ら面々が列席する専門委員会に一緒に出席させられて、県内の発電所の評価額などについて主になって説明した。


 こんな経緯がありながら約一年後には、兵庫県下の全ての発電所は現場の職員や作業員を含めてそのまま今の関西電力会社へ移籍したのである。一括して払い下げられた訳だが、私だけが県庁に残留した。発電所の無い県庁に残った電気技術者に暫くは取り立てて仕事というものがなく手持無沙汰な日が続いた。が、日支事変の先行きは暗い方へばかり進んで社会不安と自分の将来に対する不安もあり、悩みの多い暗い日々だった。


 戦争の影が濃くなるにつれて、県の建物疎開とか地下工場の建設とか、神戸港の代替港として網干港の浚渫工事と大型浚渫船の運営などの仕事を命じられるようになった。それらの事業に電気技師としての知識が要ったのであった。

 そしていよいよ昭和16年12月になって、大戦が始まった。


お仕舞い

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