第四百六十二:泰子さんの話(359) ★父の日記から(その2)県庁勤めの思い出
第四百六十二:泰子さんの話(359) ★父の日記から(その2)県庁勤めの思い出
「恐らくはただ一人なる読者として父の遺せし日記読むなり」(吉村一)を、今も継続している。たまたま押し入れの奥から転がり出て来た手帳は全部で6冊である。本人は人に読ませる積りは無かったようだが、まさか自分の息子(長男)が読むとは思わなかったろう。読んだのは妻でもなかったし、私の他の兄弟でもなかったわけだ。
父親の古い手帳など役に立つ訳で無し、普通は捨てられ永久に消失してしまうようなものだ。しかし中味を読みながら、父が生きた形跡を残そうと考えるようになった。そして今はむしろそれが責務に感じている。以下は昭和57年1月14日で、父が70歳の時の記述である。
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昭和12~14年頃(=本人28歳前後)だから、随分と遠い話になってしまった;
大同電力(株)に入社して、働きながら勉強して電気技師の国家試験に合格した頃で、当時京都の八幡市(当初二宮喜久子さん方へ下宿し、その後京阪淀駅近くへ引っ越した)に住んでいた。第二次世界大戦前の日支事変や満州事変が起き、新聞はそんな記事ばかりで国家統制が次第に強くなっていた。キャバレーやダンスホールが閉鎖に追い込まれたのは先に書いた。
そんな時局下で日本発送電法というのが施行され、民間の電力会社は全て国策会社としての日本発送電(株)へと統合される事になった。先の大同電力も統合された。
話が前後するが、大学を卒業する時に、学生主事の関野先生の紹介で神戸製鋼所の傍系の鳥羽電機製作所という会社に入る予定だった。けれども田舎から思わぬ横やりが入り、先の会社を断念し結局大同電力(株)へ入ったのだった。少なからず先生の期待を裏切った事になった。
大同電力で仕事をしながら勉強をしていたが、国家試験に合格した時に、関野先生へ報告がてら、先のお詫びも兼ねて訪問したのであった。
この時に、関野先生から「合格したのは丁度良い。実は人を探している。兵庫県庁で電気関係の主任技術者を求めていて、人探しを頼まれているんだ。XXX君、何とか行ってくれんか」という話になったのである。思いも寄らぬ話だったが、苦労して取得した国家資格を有効に生かしたい気持ちも強くあり、転職を決意し喜んでその場で承諾した。後で考えて思うが、人生の大きな流れというのは、ひょんなことで簡単に決まってしまう。
つづく




