第四百五十七:泰子さんの話(354) 飛行神社の話(父の手帳から)(10)
第四百五十七:泰子さんの話(354) 飛行神社の話(父の手帳から)(10)
二宮喜久子未亡人はもう亡くなっていると思うが、今になって考えて見ると当時の生活振りには合点の行かない事がある:
「外にも色々と花瓶や掛け軸が沢山ありましたが、(京都)室町にいる娘が来ては良い品物をみんな持って帰ってしまいました。大きな商売をしているのにーーー」と、寂しそうに語っていたのを思い出す。そう言いながら宝石箱から指輪などを見せてくれたことがあった。
その後調べてみて、夫であった二宮忠八の年齢と喜久子夫人の年齢の大きき過ぎる開きから推して、彼女は明らかに後妻であった。花瓶などを持ち去った娘というのはどうやら先妻の娘だったようだ。それにしても後妻として喜久子は夫と一体何年夫婦らしい生活を暮らしたのだろうか。※
※転載している筆者(私=息子)のネットによる調べでは:二宮忠八の先妻は寿世夫人といい56歳で亡くなったが、この時忠八は63である。忠八は先妻が無くなって間もなく自分の住んでいる八幡市の家に後妻として喜久子を迎えたらしい。そして忠八は70で死んだ。従って、喜久子は忠八と暮らしたのは5年程だったろう。
飛行神社の祭主は二宮顕次郎といい、話によるとかなりの資産家で二宮忠八の子息(=次男)である。思うのに、後妻であり又長く夫と生活を共にしたわけでは無かったから、義理の息子や娘達との交流は殆どなかったらしい。和裁一つで生きていたようには見えたが経済的には援助があり、暮らし向きに困りはしなかったのだろうか。或いは、遠慮して敢えて援助を断ったいたろうか。それにしても、喜久子は恐らく四十代半ばで後妻として入り、その後は長い淋しい女の人生だったと思われる。
終わり(記述:昭和59年7月16日・当人72歳)
筆者付記: 当人が72なら、歳が分らなくても喜久子さんは90代ではなかったろうか。亡くなっているかも知れないし、ひょっとしたら生きているかも知れない。喜久子さんへ哀れを感じるだけの心根が本当にあるならーーー、(八幡市なのだから)私なら探して会いに行き旧交を温めると思う。そこに居なければ、多分二宮顕次郎氏に訊いて探すだろう。もし父と私との間に一つ違いがあるとすれば、行動力の差ではないかと思う。
お仕舞い




