第四百五十四:泰子さんの話(351) 飛行神社の話(父の手帳から)(7)
第四百五十四:泰子さんの話(351) 飛行神社の話(父の手帳から)(7)
終戦後は国の資材調達庁神戸監督官事務所へ移り、さらに続いて大阪調達局へ転任となった。これが昭和27年8月であった。京都を離れて以来、4人の子供を抱え、妻の病気、戦後のインフレに加え、米軍調達業務の為に息も付かせない激務の日々が続き15年ばかりが過ぎた。
当時大阪調達局の支所として畿内に、京都・兵庫・滋賀・和歌山などに事務所があったので、それらへの出張も多かった。そんな関係で京都へもよく出向いた。大阪調達局は大手前にあったから、京都へは京阪電車の特急をもっぱら利用していた。
何度目かの京都出張で特急電車の車窓からぼんやり眺めていて、ふと見慣れた風景の山すそを通過しているのに気が付いた.京阪八幡駅を通過した時、すっかり忘れていた二宮喜久子未亡人の顔を思い出した。慌てて電車の窓から振り返って見ると、八幡駅の辺りは戦災を受けなかったようで、昔ながらの古い小さな家々がひっそりとしていた。
その頃は仕事の多さと外部との折衝で兎に角忙しかった。出張のついでだとしても、わざわざ特急電車を乗り換えて八幡駅で下車するだけの心のゆとりも時間もなかった。けれどもそれから余程過ぎてから、京都への出張の帰途とうとう八幡駅で下車した。どうしているかと思い、二宮さん宅を訪問する為だった。
つづく




