第四百五十:泰子さんの話(347) 飛行神社の話(父の手帳から)(3)
第四百五十:泰子さんの話(347) 飛行神社の話(父の手帳から)(3)
引っ越しはどのようにしたか、遠い昔の事で忘れてしまったが、大きめの机と整理ダンス、布団袋と柳行李一つであった。二階のひと部屋に落ち着いたが、部屋の床の間に3~4行の漢詩の掛け軸が掛けてあった。若い私には漢詩に関心も無く意味も分からなかったが、詩の末尾に「忠八翁」と記されていた。この名は今も字体まで含めて記憶している。
というのも二宮喜久子さんが「私の主人は二宮忠八といって、日本で初めて飛行機を飛ばした人で、伊予八幡浜の生まれでした。この時に「伊予八幡浜」が私を強く打った。この地名は当時の自分にとって遥かに遠い僻地であったが、聞き覚えのある場所であった。
一年の内殆ど不在であった自分の父が、母に当てた手紙にたびたび出て来る地名だった。父は薬の行商で八幡浜をたびたび訪れていて、そこが主たる商売地区だったのだ。たったこれだけの繋がりでしか無かったが、「忠八翁」と「二宮喜久子」の名前に何とはなしに親しみを感じて忘れ得ない人の名となった。
当時勤め人でもあり故郷へ帰らなければならない用事も無く滅多に帰郷しなかったが、何かの折に父へ「二宮忠八」の名を出した処、「そう言えば、その名を聞いたことがある」と応えた。更に自分が下宿している「二宮喜久子」は忠八の未亡人だと告げると、何か少し考える気配を見せた。この気配までは記憶しているが、その後に父とどんな会話になったかは覚えていない。
つづく




