第四百四十七:泰子さんの話(344) 父の日記(4)
第四百四十七:泰子さんの話(344) 父の日記(4)
防衛省を定年退職して、所謂「天下り先」として大阪豊中市にあった「航空公害防止協会」という公益法人に85位まで勤務した。先のメモみたいな日記や文章はこの当時に書かれたもので、記述した時の年齢は本人が70~75歳位の時である。
顔だけでなく猫背の姿勢も含めて父に似ていると、私は親せきの人に良く言われて来た。ソックリだと言われる。世の多くの息子がそうだと思うが、私は生前の父と余り話をした事がない。私が自分の今の息子と話したことが余りないのと同じだ。男同士というのは、何とはなしに互いに煙たい。
小学校高学年の頃、父に算数を教えて貰った記憶がある。知性の勝った人で、読書家で頭は決して悪い人ではなかった。今までに知っていた父の姿とはそんな程度であった。けれども、私は自分が父親に「頭の程度も・神経質さも・暗さも・物の考え方も・価値観までも」大変よく似ているという自覚が昔からあった。
父が遺したメモみたいな日記やエッセイ風な思い出綴りに関心を持ったのは、私が父に似ているが為に、「私自身がソコに実在して居る」気がするからだ。決して大した事が書かれている訳ではないが、私の姿が描写されている。
同じ境遇におれば「同じ道を辿る」気がするのだ:日記を読んで「ああ、そうだったよな、そんな事があったっけなあーーー」という気さえする。時代は今とはまるで違うが、もう一人の私自身がそこに生きていたような錯覚にとらわれる。次回のエッセイでは、その一部を紹介したいと思う。本稿はそこへ導く「序文」である。
お仕舞い




