第四百四十六:泰子さんの話(343) 父の日記(3)
第四百四十六:泰子さんの話(343) 父の日記(3)
貧乏な家庭の子が苦学して大学まで出た訳で、父は当時としては珍しい「頑張り屋」だったと言える。大正14~5年頃で、中学を出て直ぐに京都の寺に預けられ、人生のこれがスタートだった。
これは合理的な推測と思うが、矢掛から京都の寺に預けられらたのは、両親の「口減らし」の意志というよりも、本人の「中学では終わりたくない・上級学校に進みたい」意志が強くあって逆に親を「説得した」のかもしれない。自分の意志ならば、京都の寺で小坊主として使い走りの仕事も案外と辛くは思わず、寂しくも無かったかもしれない。
経済的に苦しかった矢掛の親としても、三人の子供の中でせめて長男だけでも大学までやらせたいという気持ちがあったのだろう。一番の道が、京都の寺に小坊主として住み込ませ食わせてもらいながら勉強するのが手段だった。父の遺したメモみたいな書き物を読みながら、この推測が当たっている気がした。そうであるならば、子の将来を思う親の決断と共に、それに応えた息子の勉学は当時の時代背景を思えば、それなりに高い見識と思う。
大学を卒業し専門の電気工学の知識を生かして、大同電力(=後年統合して現在の関西電力となった)に入社し、岐阜県木曾にある水力発電所で社会人として勤務を開始した。発電所で撮った帽子を被った写真がたった一枚残ってある。数年後発電所に関係した仕事で、兵庫県庁に転じて公務員となった。更に転じて現・大阪防衛省へ入り国家公務員となり長く勤めて課長になり、そこで定年を迎えた。
父親が置き薬の行商人で、貧しい中で本人が苦学した経緯などから眺めれば、「出世した!」と言って良いだろう。
つづく




