第四百四十五:泰子さんの話(342) 父の日記(2)
第四百四十五:泰子さんの話(342) 父の日記(2)
思い出話は、72~78位の時につまり丁度今の私とほぼ同年代の時に書かれた。手書きで、文章を推敲したような跡は無くただ思いつくままに書き連ねた風だった。他人に読ませる為ではなく自分の過去を思い出して単にメモする程度の積りだったようだ。もっと歳を取った時に、改めて読み返して思い出に浸る為とするーーーみたいな記述もあった。本人にとって一種の昔日の写真アルバムを作る気持ちだったようだ。
日々に綴った2~3行づつの日記と併せて読むうちに、先の思い出話は喫茶店で長居を決め込み好きなコーヒーをすすりながら、メモったらしいと分かった。コヒーが好きで、日に一度は必ず行きつけの喫茶店で過ごしていたようで、そんな店があちこちにあった。本人は手帳の処分を忘れて死んでいった訳だが、書き手が肉親なだけに読みながら私は父を身近に感じる思いがした。
綴った内容から見ても、公務員だった父の人生が世に問う程何か大したものであった訳ではない。私の父親というだけで単なる市井の一個人である。たまたま押し入れの奥から手帳が出て来たというだけの事で、感動という程の事でもない。
けれども取り立てて何も無かった(と見える)平凡な人生こそが、人の「生きる」意味ではないかという気がする。生きるのに、無理に意味を付けて何かあるようにしなくても良いと思う。日記を見ながらそう思った。
つづく




