山の精(最終回)
68.山の精(最終回)
「私の母は、須磨の高倉町の生まれで、若い頃そこに住んでいたわーーー」
「ーーーー?」
「ねえ、聞いているのーーー?」
「高倉町だって! ーーーいったい、それは本当の話なのかい?」 ただならぬ一致に、驚いた。
「母は乳がんで五年前に死んだーーー。娘を二人産んで、私は妹の方よ」 女は、微かにはにかんだ。
「ーーーー」
「茶店のお婆さんが言った通り、父は加古川の神戸製鋼所へ勤務していたわ。定年退職してもう大分になるけれど、こっちは今でも健在よ」 女は、ダビンチのモナリザのような謎めいた微笑を浮かべた。
「まさかーーー!」
「そうーーー、『まさか!』なのよ」
「まさかーーー、まさか、ウソだろっ!?」
「私は、須磨アルプスの山の木々のしずくから生まれた、山の精なの。だから、ほら、こんなに美しくて綺麗でしょ、ウフフ。ご覧なさい、男の子が昔見た湖水の瞳よ。私の背が高いのは、母親譲りーーー」
「ーーーー」
すらりとした立ち姿は昔の女の子みたいに、私よりも「背が高い」ーーー、のに改めて気が付いた。
「貴方が私のお父さんって事も、可能性として有り得たお話だったのね。親しみを感じるのは、そのせいかしらーーー」
「ーーーー」
黙って、女を抱きしめた。抱かれるままに、女はじっと目をつぶった。肌から、懐かしい山の木々の匂いがした。
完
比呂よし
[後書き]
昨年の秋、中学校の同窓会が開かれ、出席した。私は事前に室谷康子が属していたクラスを名簿で探し当てていた。当時のクラスの同級生に、彼女の中学時代の様子を尋ねてみたいと思ったからだ。次の話が得られた:
①佐々木(女性)さんの話
「小六の時、外の友達と連れ立って彼女の家に遊びに行ったことがあったわ。山で一緒に遊んだーーー」
☆これを聞いて、室谷康子は決して友達が居なかったのではなく、また無口でもなかったらしい。野性に満ちた女ターザンではなかったようだ。
②馬淵さん(女性)の話
この女性は私と同じ町内の潮見台町に住んでいた。私は五丁目で彼女は三丁目だったから、近所同士であったのに互いに知らなかった。これは意外であったが、クラスが一緒になった事が無ければ、こんなものか。彼女は室谷康子について詳しく、次のような話をしてくれた:
・「室谷さんとは、友達として特に親しかった訳ではないけれど、中一と中三の二度同じクラスになった。特に中三の時に同じクラスになったのは、学校側がソレを意図したのかもしれない。というのは、室谷さんは頻繁に学校を休んだからよ。学校からの「連絡役」として地理的に一番近い自分が選ばれたのではなかったかと、今にして思うわ。そんが気がする。
実際連絡する事があって、何度か室谷さんの家まで山を登ったことがあった。でも、不思議ねーーー、あんな山奥へよく一人で行けたわ。今の時代なら、とても考えられないーーー」
☆同クラスになるように学校側が配慮して、彼女へ地理的に「一番近い自分が選ばれたらしいーーー」という馬淵さんの言葉が当たっておれば、実は私にもその資格があった事になる。が、選ばれなかったの は私が男の子だったからかも知れない。確かに、学校側は何か特殊な事情を知っていたようではある。
・「室谷さんは(自分より)何かしっかりした大人という感じがしたわ。年上の人みたいな感じだった」
・「室谷さんのウチは、(茶店というより本職は)高倉山のお堂だったのよ。妙見堂といい、お父さんは行者さんだった。自分の家では時々仏壇にお経を上げに来てもらっていたわ。潮見台町内の何軒かの家では、当時同じようにお経を頼んでいたのではないかしらーーー?」
☆父親が行者という話は想像外だったから、これは私を驚ろかせた。恐らく、お堂が茶店と兼用営業たったのだろうか。当時ウチの家には仏壇が無かったので、行者やお坊さんを頼むことは無かった。そ れじゃ、どうやら部落問題という私の想像は当っていないようだという気がした。
③山本君の話
「彼女は、実は貰い子(=今でいう養子)だったんだぜ。なに、あの時代みんな貧しかったから、子供のやり取りなんて物の交換みたいに良くあった話さ。それにーーー、彼女は雨が降る度によく学校を休んでいたなあ。体が紙で出来ていたんだろうよ。確か、卒業してからは県庁の喫茶店でウエートレスをやっていたと、人から聞いた事があるぜ」
☆これはまた予想外の話の展開に、私は非常にびっくりした。傍で一緒にこれを聞いていた先の馬淵さんが:
「そう言われたら、道理でそうなのね。室谷康子のお父さん(行者)が、普通の(例えば自分の)父親に比べて歳を取って見えたので、当時変に感じていたのよ。お爺さんみたいだった。貰い子だったのなら、それで納得! お父さんもお母さんも本当の親じゃなかったのねーーー、全然知らなかったわ。学校をよく休んでいたのは、体が弱かったのかしらーーー」
*
残念ながら、これら以上の情報と話は聞けなかった。小学校時代はともかく、中学三年の時には、学校を頻繁に休んで、特に親しくした友達は居なかったようだ。雨の酷い日は、山頂から細い路を降りてくるだけでも大変だったろうとは思うが、体も頑健ではなかったのかも知れない。
背は矢張り高かったようだから、私は竹久夢二の描くたおやかな美しい女を勝手に想い描いた。里子(養子)に出した彼女の実の母親は、何処の人だったのだろう? 本当の父親は誰だったか、それらの事は誰も知る由が無かった。
*
同窓会から自宅に帰って、半日以上の多大な苦心をした末「中三の卒業アルバム」を押し入れの底から見つけ出した。失していたとずっと思っていたが、あったのだ。室谷康子のクラスを改めて眺めた。今となれば、貴重な写真である。
当時の撮影技術で古い白黒の写真であるから、どことなく輪郭がぼんやりしているのがもどかしい。写真の一番右端に室谷康子が写っていた。想像していた通りクラスで一番背が高い。私は彼女の顔を初めて知った! 彼女の直ぐ手前に、前述の馬淵さんも写っている。
少しぼやけているのが残念だが、私の特別の思い入れを割り引いても、確かに美人である。そこにはもう、小二の女の子の姿はなかった。暫く写真を眺めていて、室谷康子が何処となく他の女の子達と違うのに気が付いた。他の女の子がおかっぱ頭で、中三といっても表情にどこか子供らしいあどけなさを遺している。服装も大抵セーターとスカートで中学生らしい。
けれども、白黒写真でイマイチはっきりしないが、室谷康子の顔にはあどけなさが感じられない。大人びて見える。何処が違うのか考えて見て、先ず髪の形が特別にカットしたみたいに乱れていない。もっと大きな違いは、服装が「中学生らしく」見えない点だ。
すらりとした姿から清楚な印象を受けるのだが、彼女一人が大人のドレスを着てオシャレをしているみたいに見える。しかも汚れが目立ちやすい白っぽい服装は、通学の山道にそぐわない。茶店が決してお金持ちではなかった筈だと考えると、何か違和感を感じた。
人並み以上の背の高さと美しい顔、それに中学生らしからぬ姿、これをそのまま大人にしたら、周囲の目を引く存在になったろうと思わせる。女性としての室谷康子に興味をそそられ、私は室谷家を調べてみることにした:
第一に、康子が「貰い子」だった点が気になる。普通、自分の子供を手放したい親は居ない筈で、そこを「里子に出す」というのは、「貧しくて育てられないから」という止むにやまれなかった事情があったと考えるべきだろう。こう考えると、里子へ出す先は自分達よりは経済的に豊かなのが当たり前。
普通はそうだろうが、康子の場合は違う。何故なら、里子に出した先が山の上だったからだ。山の上の「行者の棲家」が豊かとは考え難い。里子に出されたというより、康子は「捨てられる」ようにして、行者へ渡されたのかもしれない。或いは本当に、道端に捨て子されたのを、不憫に思った行者がたまたま拾ったのかも知れない。そう考えると、遠い昔の話とはいえ、悲惨な気持ちになるーーー。
中学生になる頃には、康子は自分の両親が、他の級友の親と比べて歳を食っているのに気が付いただろう。理由を親に尋ねたろうか。先の馬淵さんが「(自分に比べて)しっかりして見えた」と感じたのは、康子の複雑な環境がそうさせていたかもしれない。
*
室谷は、決して沢山ある苗字ではない。同窓会で得た限られた知識ではあるが、それを基に自分が住んでいた須磨区内という条件で絞り込めば、何かが分かるかも知れない。「康子」という名前には「やすらかで穏やかな」という平和的な意味がある。養子を前提に実の親が、そう願って名付けたのであろうかーーー。
時間を掛けて調べる内に、意外な発見があった:室谷康子の家(高倉山の山頂にあるお堂/茶店)から直線距離で1キロ程度離れた、即ち「すぐ近所に」もう一つ別の室谷家があったのに気付いた。過去形で書いたが、今は存在しない。
「須磨離宮公園前」という須磨区内の超高級住宅地に、以前に洋風三階建ての大邸宅があったのだ。それが昔の室谷家なのである。当主は「室谷藤七」と言い、そこへ広大な敷地と庭園を持ち、外国の建築家ヴォーリズが建物を設計し、竹中工務店が施工したとある。
けれども、この邸宅は老朽化して2007年に取り壊されている。周囲が赤レンガ塀に囲まれて、敷地内に鋭角の尖がり屋根の大きな建物が二棟もあった。立派という言葉を通り越して、人を圧するような豪壮な雰囲気で迫る個性豊かな建物だった。取り壊される前に一時は神戸市が「文化財として残す」論議がなされたが、結局は財政難で実現しなかったようだ。
壊す直前の写真が残されていて、私はネットからダウンロードした。
写真を良く眺めると、小学校の帰りに道草を食った時に、当時未だ健在だった邸宅の前を何度か歩いたのを思い出した。うっそうと茂る木々の間にそびえたっていた豪壮な建物に対して、うっすらとした記憶が残っている。子供心にも「凄い」という気持ちがあったからだろう。
室谷藤七の経歴を更に調べた結果: 須磨区内で材木の商いで財をなし、屋号は「室谷商店」といった。今はもう無い。儲けた金に飽かせて先の豪邸を作ったのである。木材商の室谷家と山の茶店の室谷家とは、大金持ちと(康子が高校にも進学出来なかったほどの)貧困な家庭という事になる。この両極端な差が私の興味を酷く掻き立てた:
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室谷康子の生まれた年は昭和16年。私と同級生だから、これは正しい。因みに、この「同じ年」に先の「室谷藤七」は、データとして得た生年から数えると58歳の男盛りである。しかも金がある。(私は別にして)男の子なら誰でも「お妾さんが欲しい」年頃。彼は玩具みたいに欲しがった。
「金に飽かせて」藤七が選んだのは、当然のように「若くて・飛び切り美しい」女だったに違いない。更に省略してはいけないポイントとして、背が人並み以上にスラリと高かった。あか抜けた一流の芸者だったのかーーー。当時適切な避妊具はなかったから、藤七にとって予定外だったのが、女の子の誕生であった。
将来もめ事が起きないように「康子」と名付けられたが、あにはからんや、もめ事はちゃんと起きた。運悪くお妾さんであった母親は、産後の肥立ちが悪く間もなく死んだのが、康子の不幸の始まり:
藤七の家が大邸宅とはいえ、康子を受け入れるだけの余地は無かった。そこには本妻が頑張っていたからだ。母親を失った康子には養育すべき人が居らず、処置に困り果てて藤七は「一年悩んだ」から、康子は一年余分に歳を食った。馬淵さんが言ったように「年上に見えた」のは、このためである。
藤七が大金持ちだからといって、親類縁者も金持ちとは限らない。同じ室谷姓で、金のない僧侶が同じ須磨区内に住んで居た。高倉山上に土地の権利を買ってやり、お堂も建ててやり、そこへ康子を「僧侶の養子」として出した。乳離れすると、直ぐだった。育ての親(僧侶)の年齢が(馬淵さんが違和感を感じていた通り)不自然に高く見えたのも、この理由だった。
山の猿にしては不似合なほど彼女が美しく、背がすらりと高いのは死んだ母親譲りであった。康子本人が、そんな自分の過去の経緯を何処まで知っていたかどうかーーー。育ての親がどの程度話したろうか?
藤七が早くに死んだ為か、それともどんな事情があった為か、養子に出された先へ、その後の経済的援助はなされなかったようだ。高校へ進学出来なかったのだからーーー。或いは、僧侶の側から援助を断ったのか。この辺りの事情は分からない。彼女がよく中学校を休んだのは、生活の収入が不安定で、育ち盛りに良い食事に恵まれず健康に問題があった為かも知れないし、それとも康子の我儘だったろうかーーー。
なお、藤七と本妻との間に出来た長女は、室谷尚子という名で、今も神戸市に在住している事になっている。康子の「腹違いの姉」になるのだろうかーーー、はっきりしないが、二十は歳が上になるから生きて居れば百に近いが。
康子が、私の人生を左右し計り知れない影響を与えたーーー、のは既に書いた。「もらい子」(或いは、ひょっとしたら「捨て子」)だったというのを聞くと、しみじみとした気持ちになってしまう。人生や歴史とは何時もそんな風に、何処か物悲しい部分があるようだ。
出自がどうであれ、彼女が私にとって特別な存在であるのに変わりはなく、今でも「山の精」みたいな気がして、思慕の情を抱いている。生きていれば、ちゃんと逢ってみたい。
以上「茶店の謎」
完
2018.2.4改訂




