ねえ、ちゃんと分った?
62.ねえ、ちゃんと分った?
「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子)という言葉がある。考えると:そこには、「運命」という響も混じっている。 たまたま「置かれた場所」は、自分でどうにもしようが無い人智を超えた運命だから、それは受け入れなければならない。 唯一自分の裁量に任されているのは、「咲く」という努力の範囲だけ。
この言葉はヘンにすねた運命論者でもないし、かと言って、努力さえすれば達成出来るという楽観主義でもない。人は投げ込まれた運命の範囲内で美しく「咲く」事は出来る、ちょうど石垣の隙間に生えた草が、小さくても花を付けるようにである。明るい希望があって、好い言葉だ。
元々大嫌いであったが、投げ込まれた「セールスマンという場所」で、私は花を咲かせた事になったのだろうか? 結果はそうなったが、そうだとしてもーーー、投げ込まれた運命に逆らいたい思いは拭い切れない。会社を作ってから社長の責務として、売上げを伸ばして利潤を上げ、都度社員へボーナスも支給した。形の上で立派な社長である。
目標が「社長になる」事だったから、社長にさえなれば良いのであって他事に関心は薄く、税金をちょろまかそうというアイデアは端から無い。せっせと多額な法人税を払い続けたら、感激した税務署長から署内のロビーに優良納税会社の一つとして張り出された事もある。
悪い気はしない。得た収入でそこそこの家を建てる事も出来た。けれども、税務署の表彰と新築の家はどちらも、自分が本来目指していたものではない。
家などは苦労を掛けた配偶者へ、くれてやった気持ちの方が大きい。それらは予定外のオマケである。また、本当の私は「置かれた場所」で咲きたかった訳ではない。ただ、小ニの女の子の前に立って、こう言いたかっただけのような気がする:
「ねえ、こっちを見てよ! 僕はアカンタレではないぞ、ちゃんと判った?」




