龍之介
61.龍之介
彼女の出自がどうあろうと、或いは、そうでなかろうと、小二の山の事件が私にとってトラウマとなったのは確かだ。それは脳の奥深くに仕込まれ、「社長になる」という「人生の目標」を、強制的に植え付けられた。精神を病むように目標へ固執させ、生涯私を突き動かした。
振り返ると、人生の目標とは一体何かと、疑問に思う時がある。私の場合目標を達成するのが苦労であったし、実際に苦しかったからである。決して喜びではなかった。
「目標を持て」と人は気軽に口にし勝ちで、他人にそう言い、自分にもそれを課そうとする。それは「良い事」のようで、誰も疑おうとしない。目標の無い人は肩身が狭そうだ。けれども果たして、真剣な目標を持つ余りそれに呑まれてしまうのは本当に人を「幸せにするか」、と私は疑う。
「人は時として、満たされるか満たされないか(=社長になれるか、なれないか)、判らない欲望の為に一生を捧げてしまう。その愚を笑う人は、畢竟人生に対する路傍の人に過ぎない」と、芥川龍之介は言った。言い換えれば、目標を持たないのは、真剣に生きていない証拠だと言う。
これは、生きるとは何かを教え、恰も一般的に通じる人生に対する洞察とルールを示しているみたいに見える。けれども、私は決してそう見ない。これは天才が自分自身に向けた心の深刻な葛藤であり嘆きだったと思う。
そんな事を言いながら誠に矛盾した事に、龍之介は自殺の道を選んだ。社長になる目標に「陥った」私の場合と内容が違っていたろうが、龍之介は「真剣な目標を持っていて、それに向かって人生を生きようとした」のは間違いない。真剣であればあるほど、現実と乖離( かいり)してしまい、目標と一緒に生きるのは「悩ましく・苦しかった」に違いない。若い頃私が夜中に悪夢にうなされたようにである。自死の原因は、そこにあったと私は確信している。
目標に向かって努力する過程にこそ人の幸せがあるなんて、如何にも分かった風に言う人がいる。これは本当だろうか? そんな事を言うのは「本当の努力」をやらなかった人かも知れない。目標という人参を目の前にぶら下げられて走り続ける馬は果たして幸せか? 分からなければ、試しに馬になってみ給え。辛さは直ぐに分かる。
目標を理由に教授から折角紹介された大手企業の就職先を蹴り、「社長に未だなっていない」と夜中にうなされるのが、人として幸せであった筈が無い。同伴する家族も迷惑である。
生涯を掛けても「社長になる目標」を、達成出来なかったリスクも高かった筈だ。疲れ果てて、人参に最後まで食い付けない馬である。過程の途中で不慮の病に罹るかもしれない。そうなれば、走り続けただけの無残な人生で、そんな賭けみたいな人生が推奨され褒められるようなものとは言えまい。反対に、上手く人参に食いつけて競馬レースで一等を引き当てたからといって、それが尊敬に値するようなものか?
私の場合、目標達成の為に家族を巻き込み協力と犠牲を強いた。精神的ストレスで、配偶者を生涯治る見込みの無い病気にさせてしまったのは、私のせいである。後悔の念は大きい。治る薬があるなら、一粒の為に私は全財産を投げ出すのにいささかも躊躇しない。一番大事なものを失って、一体何の人生かという気持ちがある。
となれば、人生に「目標を抱く」のが良い幸せと考えるのは、一つの錯覚ではあるまいか?
大抵の人の人生は振り返ると、予め決めていた目標を達成したと言うよりも、「結果として、勝手にそうなった」場合が大多数ではないか? その「時々のプロセス」で自分なりにベストを尽くすなら、他人からの見た目の評価に関係無く、私はそれが良いのではないかと思う。
小二以来人参をぶら下げられてスタートした私の人生のプロセスは、目標に縛られて辛いものだった。目標以外を「無駄なもの」として切り捨てて来たが、捨てたものの値打ちは大きかったと思う。何時も物に憑かれたような私に、心良く付き合ってくれた配偶者に感謝しているが、そんな彼女を病気にさせた痛恨事以外でも、伸び伸びと私は人生を楽しめなかった。
目標に到達してみると、ハッと「目が覚めた」思いが何処かにある。食いついてみると、人参は憧れていた程には旨いものではなかった。自分を追い込んでいた精神的なトラウマから、解き放たれた開放感があるのはウソではない。
それからである、私が初めて自身の本当の人生を楽しめるようになったのは。けれども、そうなったと思ったら、大事な配偶者が病に倒れたーーー。




