そんな子と室谷康子
60.そんな子
「山の事件」を私は自宅へ戻ってから、当時母親に話さなかった。話さなかったのは、相手が女の子だという理由が一番だった。が、もう一つ私の心の何処かで、「もし、話したならば、顔を強張らせた母親が『絶対に、そんな子と友達になってはいけない! 口を利いてもいけない!』と、厳しく禁止する」のが、判っていたからでもある。
親に言わせれば、相手は(山の中に棲むような)「そんな子」なのだ。終戦直後の時代、どの家にもゆとりは無かった。自分達も、かつかつの暮らしのくせに、大人たちは一層貧しい人達に対して一線を引き、差別するのをためらわなかった。悲しい事に小二の私にも、そんな大人の思考に何となく気付いていた節がある。
決して嫌いであった訳ではないのに、小学生から中学生になっても、私は彼女の姿を黙殺し続けていた。彼女から「アカンタレ」と見られているというコンプレックスが、そうさせていたのだった。
けれども、思い返して見ると:それは私の側の一方的な「思い込み」だったかも知れない。小ニ時代の山の事件を「彼女の側でも」もし覚えていたと仮定すると、中学時代に私から黙殺され続けたのを、どう感じていたろう? 「住む世界」が違う為に私から「差別」を受けているとして、深刻なレベルで受け取っていたかも知れない。充分に有りそうな事だ。
大人になってから、私は部落問題というものの存在を初めて知った。鉄拐山( てっかいざん)の登山口近くの谷合いに貧しい朝鮮部落と呼ばれる集落があるのも知った。周りの住人から眉をひそめて眺められていた。茶店はこの部落から離れてはいても、遠かった訳ではない。
それらの人達に対して、当時は就職にも結婚にも露骨な差別が行われたのは、周知の事実である。私の母親が顔を強張らせるのは、こんな為だった。現実を考えると、女の子と私の間に双方の意識の行き違いだけでなく、超えられない深い溝が横たわっていたと今にして思う。
27.室谷康子
中学時代の同窓生の名簿を纏めている幹事役の友達がいる。茶店のある山から降りた後、頼んで八方手を尽くして調べて貰ったが、室谷康子はずっと以前から名簿上空欄のままで、在所不明になっていると知らされた。
その後ニ~三の他の人にも当たってみたが、中学卒業時にも付き合っていた友達は無かったようだ。クラスや同窓生の誰一人彼女の存在に注意を払わず、居ても居なくてもどちらでも良かった、そんな風に影の薄い印象の人だったようだ。大人しい性格で、彼女の方からも積極的に友達を求めなかったのかもしれない。
これを聞いて、空欄となっている事自体が、彼女の生涯の幸せの薄さを教えている気がした。私たちが将来どんな人間になるかという問題は、私たちがどんな場所に住んでいたかによって決まる場合が多い。現代のシリアを中心とする中近東の難民がその典型だし、我が国でも以前は(いや恐らく現代でも)、部落や差別問題が厳然として存在していた。
けれども、私は良いように考える事にした:
他の全ての人達に無視され忘れられた存在であるとしても、少なくとも私の中では今でも彼女は「活き活きと」現実に生きているのである。それは小二のままの姿ではあるが、今でも私に何かを語り掛けている。
体の弱かった「アカンタレ」の私が今も元気にしているのだから、それより強靭な筈だった彼女が何処かで逞しく生きて居るに違いない。私はそう思いたい。加古川市の製鉄所は大手の会社である。学校時代の誰とも連絡は取っていないが、背が高く姿の美しかった彼女は男に愛され家庭を持ち、子供が出来て、今頃は孫もいるに違いないーーー。良いお婆さんになって幸せに過ごしているのだろう。




