シャングリラへの分岐点
53.シャングリラへの分岐点
第二の休憩所を出た処で山道が交錯しており、道に迷った。行きつ戻りつして三十分を浪費した。 昔若い時分に迷ったのと同じ経験を、再度繰り返したのである。又道が判らないのかとがっかり仕掛けたが、今回は方角への確信がある。考えを変えて見晴台への分岐点の探索を諦め、代わりに真っ直ぐ鉄拐山の頂上を目指す事にした。
これが良かった。登る内に、杭に打ち付けた手書きの道しるべを見つけた。見落としそうに小さいな矢印が二つの方向を指し、一つは鉄拐山の頂上を指した登り道で、指されなくても判る明快な本道。もう一つは「高倉山へ」と書いてあり、横道である。
そうかーーー、あれは高倉山というのか! 女の子は高倉町だと言っていたーーー。その道は高速道から眺めた見晴台への方角と、正確に一致していた。
昔、女の子が「こっち!」と示した分岐点に違いなかった。山の九合目付近になるから、思っていたより高所である。半世紀以上が経っているが、横道が右方向に位置していたのを覚えている。小二当時の記憶が正確で、一分としてずれてないのにびっくりした:当時、弱虫の私がこんな高所まで、女の子に連れられてよく登ったものだーーー、少しばかり感心した。
「高倉山へ」の分岐道の入り口は決して魅力的な感じがしなかった。大きな木が道を覆うように繁り、日が当らない方向なので、あたかも谷へ落ち込むかのように、薄暗く陰気な印象を与えた。矢印が無ければ、いや有っても、目的を持つ人以外は敢えて選ばないと思わせる雰囲気である。その道を選んだ。
山の斜面に付けられた五十センチ幅ほどの道で、木立で薄暗い。二百米ほど奥へ入った時、対抗する向いの山から反射する陽光が、こっちの薄暗い山の斜面を所々濡らすように明るくしていた。さらに百米ほど奥へ進んだ時に、辺りに見覚えがあるのに気付いた。
六十年前の小二の記憶力は凄い。昔の古い映画フィルムが目の前に再映されみたいに、過去の記憶が一気に蘇った。辺りに反射される陽の翳り具合も、そのまま忘れていなかった。「ここだ!」と直感した。「もう帰るよーーー」と逃げ戻った場所に、たった一米の狂いも無かった。
当時の二人の立ち位置も覚えていた。私は細い道の谷側寄りに立ち、上背のある彼女は右手の山側に立っていたのだ。外に誰も居る筈はないのに、薄暗い木立の間から女の子がじっとこっちを伺っている気がして、思わず私はそこへ立ち尽くした。




