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骨の髄へしみる

40. 骨の髄へしみる


 安アパートにしか住めない程の安月給だとは思ったが、勤務先T社の給料が特に安かった訳ではない。それが世間相場なのは分かっていた。けれども仮に係長、課長と出世して行けても、生活は五十歩百歩である気がした。その間に自分は歳をとってしまう。


 問題はそれだけではない。出世が、大して能力の無さそうな上役という他人の気分と意向次第で決められるのが許せない。フェアじゃない! これでは中規模のT社でさえ、人付き合いの悪い自分なんか「社長になる」のは不可能だと、次第に理解した。


 こんな大事な事を何故学校も誰も教えなかったろうか? 努力と苦労は報いられると、教えられたじゃなかったか! 何の為に嫌な受験勉強をし、研鑽に励んで来たか、これでは意味が無い。受験勉強なら、頑張ればそれなりに成果が上がり、マルが貰える。 得点の結果が悪くても努力不足だから、案外納得出来たものである。


 一旦社会に出るとそうは行かない。努力を重ねても、それがいささかも出世の保証にはならないからだ。谷底から薄暗い天井を眺める程度の人生なら、親に苦労を掛けてまで大学を出る必要もなかった。むしろ同じ年月で、他にやっておけば良い事があったのではないか? 青雲の志は何処へ行った? 挫折感が身にこたえた。


 川の字の対岸に寝る女に対しても、申し訳がなかった:

 結婚前に眼光鋭く目を寄せてにじり寄り、七つ年下の娘を口説いたものである:「数あるがらくたの男たちの中で、自分みたいな「社長候補」の優れものに巡り合った君はラッキーだ。田んぼの中で金鉱を掘り当てたようなものさ」

娘は紀州日高村の農家の産だったから、手っ取り早く田んぼを例に引いたのだ。豊かな将来と夢を熱っぽく語り、こうしてきんに弱い女を手に入れた。


 金鉱と薄暗い天井との落差を苦い思いで噛み締めて、女が今の生活をどう思っているのか気になった。息を凝らして対岸へ気配を伺った。けれども、どんな返事が返って来るかと思うと、怖くてよう声を掛けない。自分の器量を下げる気がしたからである: お前はアカンタレーーー、失意が骨へしみた。


 夫婦とは、単純に愛とか好きだけでひっくくれる関係ではない。経済という問題が絡むし、特に、「隣のご主人はーー」という比較も絡む。 経済と比較の問題は大いに男の器量に関係する。 金鉱どころか、家族へこんな狭苦しい巣しか提供出来ない自分が心底情けなかった。


 自然界で突然変異というのは何処でも突然起きる。こうして、薄暗い寝室の谷底でうじうじと寝付けなかった時に、聞こえてきたのは太平楽のいびきであった。 なんて大きないびきだろう。川の中で幼児がいびきをかく筈はない。犯人は対岸で、自分は寝付けないのにヤツは大いびき。女の逞しさ知ったのは、この時が初めてである。


 七十になった今でも、薄暗い天井と当時の切ない心持ちを、ありありと思い出す時がある。 思い出す度に忸怩( じくじ)たる思いがし、女のいびきにも劣るほど私の悩みは大したものでなかったのかーーー、と複雑な気持ちになる。

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