★第百七話:泰子さんの話⑤「はしご」
★第百七話:泰子さんの話⑤ はしご
泰子さんは、派遣事務所の山下さん(60・女性)に付き添われて中心街の三宮にある阪急デパートへ出かけた。もちろん地下鉄である。岡山市には地下鉄はなかったから、珍しかったろうと思う。片道四十分位だ。好物の伊勢海老を買いに行ったのだ。
あにはからんや、デパ地下に行ったら伊勢海老を売ってなかった。
がっかりして、何も買わず今度は大丸デパートへ行くことにした。大丸へは地下鉄は不便なので、阪急デパート前から大丸まではタクシーを使った。700円だったと私に教えてくれた。95のおばあさんが、一日にデパート二ケ所をはしごするなんて、あまり聞いた事がないから、私はあきれた。
泰子さんは私へ苦情を言った:「なあ、ヒロシ。大丸にも伊勢海老はなかったんじゃ。可笑しいと思わんかえ? 天下の百貨店と称しながら、少しも百貨じゃねえ。たかが伊勢海老1つ置けねえようじゃ、しけたデパートじゃねえか。」 こうなると神戸のデパートも形無しだ。
「まあ、神戸のデパートでも、お正月のようなシーズンでないと置いても売れんのじゃろうよ」
「それでーーー前払いして、大丸の贈答用カタログを使って(茹でたのを)一つ注文して来たんじゃ。1週間くらいで配達になるらしいんじゃ」
午後一時に住居のマンションを出て、地下鉄で戻ってきたのは六時だったらしい。
その夜、付き添いの山下さんからSMS(=ショートメッセージ)が私のスマホへ入った:「泰子様は大丸で高価な伊勢海老をご注文なさいました、一応お耳に入れておきます」
私は「はは~ん」と思った。山下さんは、泰子さんの生活費を全部私が出しているものと思ったらしい。常識的にどう考えても、95のおばあさんと伊勢海老の取り合わせはアンバランスだったから。泰子さんが前後の見境なく高価で豪勢な無駄遣いをし回っているのを、私が全く知らない筈だと心配して、こっそり「いいつけた」のだ。私の破産を心配して、善意のタレコミである。
私はSMSで礼を述べ返信した:「大丈夫ですよ。伊勢海老代は全部泰子さんのお金ですから、私の懐は少しも痛みません。好きな物を食べたらいいと思っています。因みに、もし買い物の同行中に食事に誘われたら、(今回のように辞退されずに)出来るだけ付き合って上げて下さい。それが泰子さんの老後の楽しみなのです。もちろん食事時間も貴方の仕事の時間給に含めて計算下さい。」
後で私は思った:全部が泰子さんの負担なら、こりゃ向こう一年で泰子さん自身が完全に破産すると、山下さんは「余計に増幅して心配した」かもしれないーーー。
以上




