ウチへ来るな!
35.ウチへ来るな!
名前は忘れてしまったが、人事課長は四十過ぎで、穏やかで感じの良い人柄であった。私は教授・助教授に話していた自分の人生の夢と希望を、人事課長へ三度目に熱心に繰り返した。課長は話を始終黙って聞いていたが、熱の篭った私の話が終わると、暫く私の顔を正面からつくづくと眺めた。鑑賞に値する顔ではない。
それから斜めからも眺めた。これは地球人ではないと思ったのかも知れない。口を開いた時、思いも寄らぬ言葉を与えた:
「君はウチへ来ない方が良い」
「ーーーー?」
「ウチへ来ても、社長にはなれないね。絶対に成れないのを保証する」
「ーーーー??」
「他のもっと大きな一流の会社へ、入るべきだよ。君をウチの会社で潰すには忍びないーーー」
「潰すーーー?」
「仮に無理に入社しても、長続きせず、失望して直ぐに辞めるだろうね。だからーーー、来たいと言われても、ウチから断る」 断定的で明快な返事である。
「ーーー???」
人事課長は、S社の内部事情を隠さず語った:
外聞を憚る部分もあった。親族ばかりのいわゆる同族会社で、社長を初めとして株主は身内の出身者で固められ、配当が世間水準より遥かに高率なのは、自分たちへ利益の分配を増やす為に外ならず、社員の事は二の次。
「君が社長になるためには、同族の娘と結婚するのが手っ取り早い。が、その顔では保証しかねる。社長にはなれないねーーー」と請け合った。
小さな会社というのは、S社に限らずそうした意識の低い処が多いのだーーーという意味の事を、時間を掛けて私に説明してくれた。要するに、「世の中、お前が考えるほど正義に満ちている訳はないし、甘いものでもない。大なり小なり会社とはそういう処があり、むしろ醜く失意に満ちたもの。だから、「同じ事ならば」大手の方が、未だ正義が通り易い」と、諄々と諭したのである。理が通っていた。
「本当を言えば、君のような熱意に燃えた優秀な学生にこそ来て欲しい。けれども、残念ながらウチの社が、君を採れるだけの誇りある器ではない気がするーーー。君はウチへ来ない方がよい」と話した。
そう語りながら、自身が現実の社会で夢を失って行ったじくじたる思いを噛みしめていたろうか。学生を求める為にやって来た筈の人事課長が、「ウチへ来るな」と言うのだから、ただ事ではない。職務に反してまで敢えて若者の軽挙を諭したのは、何か感じる処があったのだろうか。私と同じような年代の息子がいたのかも知れない。
S社課長の親身な誠意に感じ入った。いい先輩が居るものだーーー、世間は捨てたものではない。当時もそう思ったし今もそう思う。教授・助教授の先生方は、深い専門の学問はあっても案外実社会や世間の実情に疎いもの。だからこそ、世間に揉まれて人事課長となった人の言葉は、現実的で貴重なアドバイスであった。
因みに、後年私は小さな会社を設立するが、小さいが為に当然同族会社とならざるを得なかった。そうでありながら、私は昔に受けた人事課長の恩を決して忘れなかった。社長としての私の給料は「業績に応じて」それなりに高給ではあるーーー。けれども、社員に対しても世間並以上に報いるのを目標とし、経営の基本としている。
優れた業績を上げる社員には、時に社長以上の給与を出すのを惜しまない。「社長にさせる」と約束はしないがーーー、少なくとも、自分の会社に誇りが持てないような会社であってはいけない。




