もったいない
生まれが貧乏で成長して極度の貧乏になったという話は時々聞くが、幸いにして知識に関してはそうならない。年月を経てだんだん賢くなるのが人間で、これに例外はない。
例えば、大学で建築工学を勉強してやがて高層ビルを建設するのもそうだし、自動車学校で勉強して免許を受け、ついに車を買って彼女をドライブに連れ出すのだって同じ事で、どれも学んだ知識の増加の結果だ。
もっと身近に、筆者の配偶者は七つ下で結婚当時とても愚かな女だったが、今ではこっちへ命令や指示を与える位に超賢くなっていて、夫には不幸だがこれも経験の増加による。
若い時には「研鑽を積む→実用に活用」のプロセスを意識せずにやっている。学んだ事や経験を生かすのが人だし、言うまでも無く、それが前向きに生きるという事でもある。逆説的に言えば、蓄積した知識や経験を生かさないなら、(人間ではないとまでは言わないが)少なくとも人間らしくはない。
この原理に立てば知識や経験は、年齢が15の時より20や30の時の方が豊かだし、五十代ともなれば当然20や30の時より遥かに豊富。当たり前の事を書いている。だからこそ(本当は)五十代を雇いたいと、ウチが考えるのは当然だ。
ただ問題は、五十代になると人生を「降りる」という本人の心構えに毒されて、折角それまでに蓄積した知識や経験や賢さという資産を自ら帳消しにしてしまう事だ。賢さを後ろ向きに使う。自身を「見切る」ことに活用して、人生からさっさと「降りて」しまう。
「降りた」状態を以後友として生きるから生涯成長せず、人生が50でストップしてしまう。ウチへの面接応募者だけではなく、高度に知的と思われる学者でさえそんな人が少なくなく、研究もその辺りがピークで人生をお仕舞にしてしまう。
指摘されて痛いと感じる人は未だ救いがあるが、大抵の人に自覚さえない。これでは「一体何の為に歳を重ねて来たのか、もったいない」と、筆者なら言いたい。




