アレルギーに似た抗議
32. アレルギーに似た抗議
小二の決心は、学年が上がっても揺らがない。当初の目的は同級生に対する「仕返し」と、女の子へ「アカンタレでない!のを証明して見せる」のと二つであった。これが「社長になる」へ直結したものである。
けれども、やがて五年・六年生と成長するにつれ、それとも、虐められる事が無くなった為でもあろうが、何時の間にか前者の「仕返し」をするという野蛮な意識は消えていった。年齢を加えるにつれ、人は悪しき感情が減って行くという学者の研究があるらしい。それに倣って、私も例外ではなかった。
「仕返し」が自然に消滅した結果、後者の「アカンタレでない!のを証明する」=「社長になる」の意識へと一本化され、信念は一層強化された。高倉町の女の子に対する、一種アレルギーにも似た強い抗議の気持ちだけが残った、と言えようか。
当時は、いや、今でも私はそうあるべきと考えているが、六年生の卒業の時に歌う「身を立て名を上げ、やよ励めよーー」(仰げば尊し)の歌詞が、未だ有効な時代だった。「志を果たして、何時の日にか帰らんーー」(故郷の歌)の歌詞も、好きである。
尾崎先生の「補習組」だった落ちこぼれ達は、「名を上げ」とか、「志を果たして」の歌詞から最も遠い位置にあった。けれども、この唱歌は私に励ましと身が引き締まるような希望を与えた:「何時か、頑張ろう。そして社長になる」と。
但し、飽くまで頑張るのは「何時か将来ーー」なのであって、「その当時」ではなかった。当時は人間の寿命は無限であると信じていた時代だから、「頑張る時」のやって来るのが何時なのか判らなくても、困りはしなかった。子供は楽天的である。
楽天的な決心は中学生になり高校生になっても変わらず、以後ソレが「身に染みつき」生きる目的となって行った。「やよ励めよ」の歌詞の命令形の通り、その後に続く受験戦争は「社長になる」意志を著しく促進させ、それなりに励んだ。




