学校中で私一人
31. 学校中で私一人
はっと気がついたら、二年生から一足飛びに四年生になっていたような気がする。間に挟んだ三年生は存在しなかったみたいだが、この辺りの記憶ははっきりしない。戦後のどさくさで学校も不真面目だったから、一部の学年を省略したかもしれない。クラス替えが行われ、四年になって担任が変わった。
「高倉町」の女の子は違うクラスとなった筈で、これで身の回りから「アカンタレの真実」を知る者を追い払えてヤレヤレである。念頭からも既に彼女の姿は消えていた。
四年の受け持ちは男の先生で、尾崎先生といった。師範学校を出立ての若い熱血先生だから、通知簿へ悪口を書くタイプではない。
当時幼年時代から少年時代に移行する端境期で、私は少年への切り替えに結構忙しかったが、それを理由に、どの学科の成績も良くなかった。中でも算数の出来が最悪。けれども、熱血先生だけに、そんな理由を認めない。
出来の良くない他の何人かの生徒と一緒に、私は毎日放課後「補習授業」を受けさせられるハメになった。今で言う「落ちこぼれ」対策。クラス全体には約50数名の生徒が居たが、居残り組はその中のビリグループ7~8名。補習授業が嫌いだった。自分が出来ないのを棚に上げて、(将来の社長として)屈辱を感じた。
少人数だから、補習は個人教授みたいである。先生に私のノートの上をじかに指で示された。ひたと寄り添って「そうじゃないだろ、こうだ」と間違いを指摘される時、生暖かい息が頬に掛かった。そうまでされても答えが判らず、「先生に悪いなーー」と思った。そう思う位だから、私にも他人へ多少の思い遣りはあった。
思い遣りは、「掛け算を早く理解して上げなくてはーー」という反応を引き起こし、少しは一生懸命になる。こうして「悪いな」を上手く利用されて、強制的に算数を教え込まれた。そんな補習授業がどれくらいの期間続いたのか、長い期間だったか、或いは夏休み期間中だけだったのか、昔の事なので定かでない。
そうこうする内に不思議な事だが、何時の間にか居残り組の中で私は一番になっていた。一番といっても、全クラスのビリグループの先頭だから大した事ではないのだが、私のプライドは少なからず回復した。
補習授業の最後に必ず、おさらいの小テストがあった。出来上がった答案を持って行くと、持参した順に目の前で先生は赤ペンを走らせて採点した。一つの赤マルと隣の赤マルがサラサラと次々連続して美しく繋がるのを眺めて、どうしてあんなに上手にくっつけてマルを作れるのだろう、と感心した。大概、私の答案は満点であった。
ある日そんな小テストの一つで、私は珍しく酷く悪い点を取ってしまった。赤丸が無く、殆どゼロ点に近かった。顔を上げずに私の答案を採点しながら、尾崎先生が呟くように言った言葉を、半世紀以上が過ぎた今も忘れずにいる:「君らしくないじゃないかねーーー」
この言葉に、ハッと反応した自分の気持を覚えている。それまで自分は弱虫で、人より劣り良い処は何一つ無いものと思っていた。けれども「君らしくないーーー」は、それまでの人生で「アカンタレ」が貰った「最高の褒め言葉」であった。舞い上がる程嬉しかった。ゼロ点を貰って嬉しがった生徒は、学校中で私一人であったろう。
それからである、私が頑張り始めたのは。




