創り出すもの
大阪の万博公園に岡本太郎の「太陽の塔」というのがある。が、何処からどう見ても太陽には見えないから奇妙だ。次回の東京オリンピックのシンボルマークにしても、疑えば怪しげ。私の中学時代と言えば、そんなのさえ存在する以前の昔の話だから、怪しげどころの騒ぎではない。芸術という言葉の意味さえ充分に知らなかった。
「ソレは絵ではない・背後から木をかっぱらって来い」の女先生の言葉は乱暴であり、私には理解不能であった。けれども反発を覚えながらも、何故か分からないが直感的に「先生の言うのが正しい」という気はしていた。けれども、なぜ正しいのか分からなかった。生真面目だった中三は、自分の考え方と折り合いをつけるのに二日間苦労した。
更に一日余計に発酵させて、四日目に自ずと理解するようになった:絵にするために先生が持って来たのはたまたま背後の木だったが、実は木でなくても良かったのだろう。木は先生の好みだったに過ぎない。翻って、(木が無かった)私の元の写生画は、どうだったろうか。風景を画用紙へ正確に写し取ろうと専念しきゅうきゅうするばかりで、そこには「(自分の)考え」というものが存在しなかった。
写すだけなら、自分は写真機という道具と同じではないのか! もっと言えば、私の絵は単なる落書きに過ぎなかった。どうしてお前は自分の頭で考えようとしなかったのか、と叱責された気がした。写生は写す事ではなかった。絵は画くものではなく、創り出すものだとついに理解した。初めて女先生の言葉が正しく胸に落ちた気がした。




