生(なま)を写す
ところがどっこい、生意気で中三にして早や進歩的なこっちは(内心で)違う考えを持っていた: 絵は上手かも知れないが、この女先生は近年の科学技術の進歩を知らないーーー、と私は解釈したのだ。
丁度この時期に、カラーフィルムが当時アメリカのコダック社で世界で初めて開発されたのである。このニュースを新聞で読み私はちゃんと知っていた。科学好きな少年だった私は、画期的な新技術だと思った;写真はやがてもう白黒の時代ではなくなる。これからはカラー絵の具を使わなくても、天然自然な色が再現され、木だって山だって写生の絵を遥かに凌ぐ美しい写真が出現する。
その中にあって、写生とは一体何だ。写生とは(字句の通り)「生を写す」のだから、絵は大なり小なり「写真と同じもの」。特にカラー写真が出現しようとしている時代に、写生なんてもう何をか言わんやである、女先生の時代錯誤も甚だしい。
どんなに赤や黄色の絵の具の色遣いに頑張っても、遅かれ早かれ絵はついに「写真に負ける」。世の中にあるのは勝ち負けの生存競争と真実だけで、中間は無い。写生はもはや時代遅れの運命なのに、女先生は「(絵は写真とは違うと)強がり」を言い、負け惜しみを隠そうとしている。本人に自覚があるかどうか、哀れや、先生は遅かれ早かれ職も収入の道も失うであろうーーー。
こんな思考をする生徒は、まことに扱い難い。それが高校の受験を控えた中三の盛りであった。ところがであるーーー。不遜な私の内心を覗いたのか、女先生はこっちの顔を正面から暫く眺めた。次に私の画用紙を指して、驚くべき事を言い放った。こっちの想定を超えた:




