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そこしかない

 「ラ王」を食べる楽しみや本を読む楽しみを含めて、先の数珠繋ぎの楽しみ方を中心に生きるのは、冒頭の「人を愛する」(=愛する人を持つ)事と、「労働する」(=仕事をする)事とは違うから低級な感じがするが、けれども果たして本当に低級かと考えて見た。


 先のエッセイで書いたが、人の原理は本能に立脚しているのを思い出して欲しい:「人を愛する」(=愛する人を持つ)事は元々性欲から派生しており、「労働」も仕事欲といえるし、これは生きる為に食欲を満たす目的に外ならないと判れば、特別に高級がる必要は無い。


 自然な欲求とすれば子供の遊び欲にも近く、人の「生きる本能」という同じ方程式の範囲内にある。高級・低級の区別は人がそう思っているだけに過ぎないのではないか、子供の遊びは子供っぽい、幸せ探しや人を愛するのは大人っぽいという風に。ならば老人っぽいとは、何だろう? 子供っぽいのと大人っぽいの両方を兼ね備えていそうだ。


 人を愛したり労働したりする事が、大人の幸福の在りかとして生きる為の指針にはなるのは確かだ。けれども先に触れた通り、熟した年代になれば幸福の在りかにたどり着いた人もいるし、又は諦めた人もいるかも知れない。諦めた人は自分が選んだ道で自己愛に外ならないと思うから、不幸中の幸せかもしれない。


 その年代に達した時、そこがてっぺんだから世界はもはやそれ以上でも以下でもない。(若い人から見れば)宇宙の果てみたいな遠さだが、その先はどんな風になるのだろう? 宇宙なら果ての先は未知だが、人の場合には活路がありそうだ。


 歳が行くと子供に戻ると言われるが、大体が不幸にして一般に老人の半ボケ状態を指す。けれどもよく考えれば実はそうでもないと思う。子供の時代のように日々を「思いつくままに・好きなように」楽しみを数珠繋ぎにする、そう生きるのがむしろ正しい、と言えないか。進化論が終了したのだし、てっぺんなのだから転がる行き先は、理屈として「そこしかない」じゃないか?




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