仕事をする
幸せの在りかは二ケ所にあると書いた。あるとすればだが、もう一カ所は何処にあるだろうか。考えてみて欲しい。不幸にして「愛する人」を見つけられなかった人は、せめて二番目があるのならありつきたい。実はそれほど難事ではない。矢張り人間の進化に関係していると筆者は考えた。
進化の果てに人が存在する為には生殖行為が一番と先に書いたが、となればーーー、二番目はなにか? 生物として「生きてなければ」世代を繫ぐ生殖行為へ持ち込めない。これは当たり前。生きるとはどういう事か? 「生きる」とは生命を保つ事で、「食べる」と同意義だと考えた。食べ物は何時も目の前に転がってある訳ではない。森の中へ木の実を探し行くとなれば、数キロ歩かなければならないし木にもよじ登らないといけない。
マンモスを狩るとすれば汗して道具を作らなければならないし、疲れ果てるまで獲物と戦わないといけない。言い換えれば、生命に必要な蛋白質を「食べる」為に労働が不可欠と判る。これが嫌だという人は生命を失い、死に絶えて生殖行為のチャンスに恵まれないから、当然絶滅した。これに思い至るならーーー、二番目の幸せの「在りか」が労働以外の場所にある筈は無い。現代語で言えば、「仕事をする」ところ以外に幸せは存在出来ない、と思う。
「仕事をする」といっても、スポーツ選手がよいか、サラリーマンが良いか、デザイナーがよいか、喫茶店の経営がよいか、そこまでは分からない。収入の多寡もある。過重労働が良いとは言わないし、嫌いな仕事を続けなさいとは言わない。だから幸せが「仕事・労働」の中にあると判っていても、何処に潜んでいるか正確な位置までは分からない。失くしたボールペンは自宅内にあるのは確実だが、自宅内の隠れ場所までは分からないのと同じで、仕事の中の幸せの在りかは、人それぞれに選択の「幅」がある。けれども、この知見に気付けばこうは言える:




