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幸せの在りかには「幅」がある

 今の時代の知見では、何万年、何百万年、いや何億年と子孫を継いで進化した結果が、現代に生きている人。引き継がれるには進化のルールがあって、ルールに不適合な個体は淘汰されてきた。優先して選択されルールの第一は紛れもなく「生殖行為」以外にはない。

 人で言えばセックス。幸福が(あるいは、類似したものが)存在するとすれば、セックス以外の場所にある筈は無い。私たちの祖先が、生殖以外の処に幸せを見出してもしそこにうつつを抜かしていたならば、絶滅していて現在の人は存在しない事になる。


 手短に言えば、「こうして目下生きている」のは、両親のセックスがなければ貴方は存在さえしないし、この文章を読むことも無いし、幸せ探しをするチャンスもない。


 露骨な言い方を避けるなら、(セックスの代わりに)「人を愛する」以外の場所に「本当の幸せ」はない、と言い切れるのではないか? 「愛する」のを「人を慈しむ」に言い換えても同じだ。幸せの論理的な「在りか」はここ以外にある筈が無いと思う、否定するなら私たちは存在しないからだ。ピンポイントで明確な位置までは分からないが、失くしたボールペンが自宅にしかないというのと同じ論理になる。


 「人を愛する」といっても、愛する相手はAさんがいいかBさんがいいかCさんか、いや、中年のバツイチ子持ち女か、或いはソープランドのスタイルのいい彼女か、そこまでは分からない。愛すべき彼氏として優しい男がいいか、勇気ある人が良いか、金持ちの中年男がいいかまでは分らない。


 「人を愛する幸せ」の在りかには「幅」がある、明らかに。ボールペンが自宅内にあるといっても、それなりに広さがある。けれども、それだけ分かれば「在りか」として充分ではあるまいか、この知見からこんな定理が導かれそうに思う:

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